遺跡 - 桑部城発掘調査
 

 

(1)桑部城跡の概要

 桑部城跡は、町屋川南岸に舌状に張り出した標高50m前後の 低丘陵地の先端部に築かれています。
城は、2つの大規模な空堀によって3つの主な郭に分かれ、北の郭が桑部北城、中央の郭が桑部南城と呼ばれています。
 北城は一辺約50mのほぼ菱形をした郭で、西・南辺及び、北辺の一部に高さ1~1.5mの土塁が巡っています。北・東辺には土塁状となる顕著な盛り土は認められませんが、丘陵斜面が削平され切岸として利用されているようです。北東及び、北西部に伸びる尾根とは堀切によって隔てられており、西側には帯状の腰曲輪が構築されています。
 南城は約80m×40mの長方形状の郭で、1~1.5mの土塁が北辺以外に巡っています。南西隅には桝形状の虎口が設けられ、東側に派生する尾根とは堀切で隔てられています。
 南城の南には、現在は稲荷社となっている約40m×20mの長方形の平坦地がつくられ、城域内の最高所の郭となっています。
 文献資料は、同時代資料は少ないものの、江戸時代に成立した『勢陽五鈴遺響』、『三国地志』等が残っており、毛利次郎左衛門、大儀須若狭守が城主と伝えています。両城とも織田信長の伊勢侵攻により滅ぼされたとされていますが、その後は小牧長久手の戦い(1584年)の際に、豊臣秀吉が改修を命じた古文書が残っています。

(2)発掘調査の概要

 平成7年の第一次調査では、主に北城と、最北の郭の調査を行いました。
 北城は近年、畑として利用されていたため撹乱が激しく、建物跡等は わかりませんでしたが、柱穴と思われる土坑が数基検出されています。

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また、北城の縁辺部に巡る土塁の断ち割り調査も行いました。
土塁 に含まれていた遺物から、土塁が構築されたのは戦国時代であったこと がわかりました。
 なお、北城の調査で特筆すべきことは、弥生時代の遺物包含層が 検出されたことです。ここには大量の弥生土器が含まれています。桑部城跡には弥生時代にも遺跡があったようです。
 北城の北側、桑部城跡において最も北に位置する郭は、面積は 約900m2と、北城、南城に比べて若干狭いものの、柱穴と思われる土坑が多数検出されました。また、礎石にしたと考えられる石も遺構面の直上に確認でき、比較的大きな建物が建っていたことを伺い知ることができます。

(3)出土遺物

出土遺物は現在までに、破片数にして8000点余りが出土しています。

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15世紀後葉から16世紀中ごろまでの、瀬戸・美濃の大窯で焼かれた陶器類の他、常滑焼の壷、甕、中国からの輸入品の白磁、染付、土師質の鍋、羽釜などがあります。また、出土量が最も多いのが土師器の皿であり、このことは桑部城跡がこの地域での拠点的な城館のうちのひとつであったことを物語っています。

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 その他、昨年、新聞紙上等で報道された朝鮮陶器はいわゆる高麗茶碗の一種で、李朝時代(16世紀)に朝鮮半島で生産されたものです。東海地方における朝鮮陶磁の出土例は数少なく、特に三重県では初めて確認されました。

「高麗茶碗(こうらいぢゃわん)」とは?
 

李朝時代の朝鮮で焼かれ、わが国に舶載された茶碗。高麗時代のものは僅かで、わが国が朝鮮を呼ぶ名称として高麗が用いられた。村田珠光によって侘茶が提唱される室町後期の16世紀末、それまで主流だった唐物からもの茶碗に替って茶湯の世界に登場、大いに賞玩された。(平凡社『やきもの辞典』1984年)