郷土史(人物編) - 遠藤利貞
【写真は大日本数学史(市立図書館蔵)】
 

桑名史上の人たち(15) -遠藤利貞(えんどう としさだ)-


 遠藤利貞は天保14年(1843年)、桑名藩士・堀尾利見の三男として江戸の桑名藩屋敷で生まれ、幼いときに桑名藩士の遠藤家の養子となりました。9歳のころ父から算術(和算)を学び、さらに江戸・京橋の細井若狭のもとで算術の勉強に励みました。26歳のときに明治維新の戦争が始まり、利貞は旧幕府軍の彰義隊とともに、上野での戦いに参戦しました。しかし、彰義隊が敗北したため、彼は偽名を名乗って江戸で半年ほど隠れたのち、桑名に来ました。
 
 桑名では藩校が復活していて、利貞は数学の教師となりました。しかし、数学に洋算が採用されるようになったため、明治5年(1872年)に上京して洋算を学びました。学資が乏しかったため、浅草の新々学舎などあちこちの数学塾で教えましたが、翌年には山田(現在の伊勢市)の度会県学校の教師となりました。明治8年には官立東京師範学校(現在の筑波大学)、翌年には九州の宮崎学校の教師となりましたが、宮崎学校はすぐに廃校となり、明治11年に東京府師範学校、翌年には東京府第二中学校の教師となりました。
 
 明治10年、東京数学会社(現在の日本数学会)が設立され、利貞も会員となりました。当時、数学といえば洋算が盛んで、従来の和算は下火となっていました。もともとは和算を学んだ彼は、今のうちに和算の歴史を書き残しておく必要があると感じ、以後独力で和算史の研究に励みました。それまで和算史を研究した人はおらず、まったく手探りの研究であり、公務の余暇に資料を探しては書き写すなど、非常に苦労して原稿を書きました。こうして明治26年5月、やっと原稿は完成しました。
 
 しかし、利貞は生活費にも事欠くありさまでしたから、とても出版はできませんでした。一生の内で私立学校17校、官・公立学校7校に勤めていることを見ても、正規の教員でなく収入は不安定で、経済的に恵まれた環境ではなかったようです。彼は先妻と死別し、後妻とは3か月で別れ、3人目の妻とも1年半ほどで死別し、その後4度目の結婚をしています。原稿完成の翌年に後妻と結婚したものの3か月で離別したのは、生活があまりにも苦しかったからだと思われます。
 
 明治29年、三井財閥の三井八郎右衛門の援助を得て「大日本数学史」がやっと出版されました。その後、理科大学(現在の東京大学理学部)助手や帝国学士院の和算史調査員として研究に励み、「大日本数学史」の改定原稿を書きました。しかし、完成前の大正4年(1915年)4月20日に東京で亡くなりました。享年73歳でした。遺骨は東京・染井墓地に埋葬されました。彼の没後、改定原稿は「増修日本数学史」として出版されました。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)