郷土史(人物編) - 加太邦憲
【写真は加太邦憲(加太邦憲自歴譜から転載)】
 

桑名史上の人たち(17) -加太邦憲(かぶと くにのり)-


 加太邦憲は嘉永2年(1849年)5月19日に桑名外堀で生まれました。父は桑名藩士加太孝喜、母は鶴子でした。藩校・立教館で学び、慶応元年(1865年)に立教館の講師となり、漢学を教えました。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは桑名からの援軍に加わり、奈良まで行きましたが、敗報を得て桑名に戻り、本統寺で謹慎しました。この謹慎中に小沢圭次郎から英文を見せられました。謹慎が解けてから、仲間とともに英語を学びました。立教館再開により、彼は講師に復帰しましたが、立教館では旧来の漢学のみが学問であり、西洋の学問は学問でないとの方針でした。
 
 この方針に彼は反発して辞職し、上京しました。明治3年(1870年)2月29日に桑名を出て、東海道を歩いて、東京に3月9日に着きました。藩から奨学金をもらって8月に大学南校(東京大学の前身)に入り、フランス語を学びました。当初は兵学を学ぶつもりでフランス語を選んだのですが、身体が弱いので、兵学をやめて法律を学ぶことにしました。明治5年に大学南校を退校し、司法省明法寮学校(東京大学法学部の前身)に入校し、フランス法学を学びました。翌6年には桑名藩士鵜飼氏の次女歌子と結婚しました。彼は25歳(数え年)、歌子は18歳でした。
 
 明治9年に卒業し、日本で最初の法学士の1人となった邦憲は、司法省法律学校に勤めるとともに、フランス民法の翻訳を行い、日本での民法制定の基礎を作りました。中でも明治16年に完成した「仏国民法条文」の翻訳では、訳語の創作に苦労しました。このときの訳語が、その後も日本の法律用語として使用されています。
 明治19年3月から明治23年7月までヨーロッパに留学し、帰国後は大津地方裁判所長兼第三高等中学校(京都大学の前身)の法学部講師となりました。翌24年2月から京都地方裁判所長となり、明治29年には東京地方裁判所長に転任しました。さらに明治31年には大阪控訴院(高等裁判所)長となり、大阪法律学校(関西大学の前身)の校長も兼務しています。
 
 健康がすぐれなかった彼は、明治38年11月6日に引退(休職扱いで、給料は3分の1支給)しました。その後は東京に移り、旧桑名藩主松平家の御用係を務めたり、政府の維新史料編さん会の委員を務めたりして、明治維新当時の桑名藩について調査を行いました。また日仏協会の嘱託を務めました。明治43年には貴族院議員に選ばれています。
 彼は老年にいたり、壮健となり、昭和4年(1929年)12月4日に東京の自宅で亡くなり、東京谷中の玉林寺に葬られました。享年81歳でした。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)