郷土史(人物編) - 吉村権左衛門宣範
【写真は宣範の短冊(市博物館所蔵)】

 

桑名史上の人たち(4) -吉村権左衛門宣範(よしむらごんざえもんのぶのり)-


 吉村権左衛門宣範の先祖の吉村又右衛門宣充(のぶみつ)は広島の福島正則に仕えて、多くの戦功を挙げました。しかし福島家が取り潰されたため、宣充は浪人となりました。あちこちの大名からの誘いがありましたが、彼は一万石を欲しいと要求しましたので、なかなか引き受ける大名はありませんでした。桑名藩主となった松平定綱は彼を寛永20年(1643年)に名目は五千石、実質は一万石で招きました。
 
 吉村又右衛門宣充は慶安3年(1650年)に没し、桑名顕本寺(けんぽんじ)に葬られました。今も顕本寺に墓があり、桑名市指定史跡となっています。その後の吉村家は本家、分家の二家系とも松平家の家老として代々勤めました。吉村分家十代目の権左衛門宣範は文政3年(1820年)に生まれました。20歳すぎには父とともに家老となりました。彼は江戸詰、父は桑名詰でした。慶応3年(1867年)の藩制改革では、家老職をあらためて、御軍事惣宰(おんぐんじそうさい)(服部半蔵)、御政事惣宰(吉村権左衛門宣範、沢采女)、御勝手奉行(酒井孫八郎)が設けられました。
 
 彼は御政事惣宰として行政面での最高指導者になりました。彼も武士であり、武道も鍛練しましたが、むしろ文道を好み、桑名春日神社の神官である富樫(鬼島)広蔭に国学を学び、とくに和歌に優れていました。また酒、たばこ、将棋などは好まず、謡曲をたしなみ、部屋には小鳥を飼っている、やさしい人でした。 頭脳明晰(せき)、円満な性格で、説得力に富んでいました。そして沈着な思考力をもって物事を分析し、時代の推移を冷静に把握しました。いずれ幕府の時代ではなくなることを予想していたようです。彼は幕末には京都へ行き、藩主の松平定敬(さだあき)の側近として仕えていました。鳥羽伏見の戦いの後に、定敬は大坂から江戸へ、さらに桑名藩分領地の越後柏崎(新潟県)へと移りましたが、宣範も柏崎に行き、定敬を支えていました。 
 
 地元の桑名は、すでに新政府に降伏し、恭順の意思を表していましたが、柏崎の桑名藩士は降伏していませんでした。当時定敬の側近は宣範を始め穏健な恭順派が占めていました。23歳の定敬は血気盛んな青年であり、49歳の宣範は老練な政治家でした。宣範は定敬に対して執拗(よう)に恭順を説きました。しかし、若い連中はあくまでも抗戦を主張し、ついに慶応4年(1868年)閏(うるう)4月3日の闇(やみ)夜に、若い藩士二人が柏崎の路上で宣範を暗殺しました。この暗殺事件を命じたのは、定敬だったとも言われていますが、真相は謎です。宣範の遺骸(がい)は柏崎の妙行寺に葬られています。彼が殺されなければ、桑名藩の動きも変わっていたでしょう。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)