郷土史(人物編) - 駒井重格
【駒井重格(専修大学提供)】
 

桑名史上の人たち(14) - 駒井重格(こまい しげただ)-


 駒井重格は嘉永6年(1853年)、桑名藩士・駒井重周(じゅうしゅう)の嫡子として生まれました。慶応3年(1867年)に15歳で(数え年)家督を継ぎ、翌年の戊辰戦争では桑名藩軍の一員として越後柏崎から東北地方へ参戦しました。

敗北後は桑名に戻りましたが、その後東京へ出て、旧桑名藩主の松平定教(さだのり)と共に横浜のブランズ塾で学びました。さらに明治7年(1874年)11月20日、定教のお供をして横浜を出帆し、アメリカへ渡りました。二人はニュージャージー州ニューブランズウィック市の私立ラッガース大学に入学しました。定教は理科を、重格は経済学を学びました。
 
 定教は明治11年に、重格はその翌年に帰国しました。留学中、重格は田尻稲次郎と親交を結び、帰国後は田尻と学校創設を企画して明治13年9月16日、専修学校(現在の専修大学)を開校しました。そして、彼は初代の校主総代に就任しました。
 
 翌年、重格は大蔵省国債局に勤務しました。その後、岡山県中学校兼師範学校長となり、さらに同県商法学校長も兼務しました。明治15年には大蔵省に戻り、調査局に勤務しました。同19年には同省書記局に移り、参事官も兼ねるようになりました。そして、彼は会計法の制定にも参画しました。
 
 明治29年には東京市区改正委員となり、また、大蔵省国債局長兼参事官となりました。翌年には農商務省参事官となり、「農商工統計ニ関スル特別調査委員長」を務めました。
 
 明治32年、高等商業学校(現在の一橋大学)の校長に就任しました。前任の校長は教師、学生の排斥運動によって退任したばかりで校内は乱れていましたが、重格は学校を見事に立ち直らせ、名校長といわれました。しかし、同34年12月9日に急死しました。享年49歳でした。遺骨は東京・谷中墓地に葬られました。

重格は、大蔵省などに在籍中の明治20年ころまで専修学校で講師も務めていて、著作も多数あります。翻訳書としてはイギリスのホーセット著『自由保護貿易論』、グーシェン著『外国為替論』、フランスのボリュー著『歳計予算論』、オランダのヴィッセリング著『支那(しな)貨幣考』、ドイツのロッシェル著『経済考徴』、講述書としては『外国貿易之理』『経済要論』などがあります。

なお、重格の次男である重次(じゅうじ)は、第四高等学校(現在の金沢大学)在学中に有名な寮歌「北の都に秋たけて」を作詞しています。重次も大蔵省に勤め、のちに衆議院議員になっています。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)