郷土史(人物編) - 高木貞作
【写真は高木貞作が寄進した鎮国守国神社の鳥居】
 

桑名史上の人たち(8) -高木貞作(たかぎ ていさく)-


 明治維新当時に話題となった桑名藩士の一人に高木貞作がいます。 彼は嘉永元年(1848年)11月23日に桑名元赤須賀で生まれました。 先に紹介しました服部半蔵と酒井孫八郎のいとこにあたります。慶応4年(明治元年、1868年)に21歳(数え年)でした。この年の閏(うるう)4月3日に、桑名藩家老吉村権左衛門宣範を越後柏崎の路上で暗殺したといわれています。 もう一人の暗殺者であった山脇隼太郎とともに暗殺後に姿を隠しました。高木は神戸四郎、山脇は大河内太郎と変名し、旧幕府軍の衝鉾(しょうほう)隊に潜り込み、会津若松で桑名藩軍に合流しましたが、その後、桑名藩軍が庄内で降伏したので、彼らも降伏しました。 そして桑名藩軍が桑名へ護送されることになったのですが、彼ら二人が桑名へ戻れば吉村家から仇(あだ)討ちにあうかもしれないと考えられました。そのため二人は僧侶(りょ)の姿をして、名前も高木が成徳、山脇が成光とまた変名し、箱館(現在の函館)にいる旧桑名藩主松平定敬を訪ねていきました。庄内を出るときに高木は手紙と刀、髪の毛を服部半蔵に預けました。

 ところが彼らが箱館に着いたときには、すでに松平定敬は箱館を出た後でした。  その後二人は新選組に属して、最後の五稜郭の戦いに参戦し、敗北したのです。 明治2年11月に東京へ船で護送されて、身柄は桑名藩に引き渡されました。その後のことは明確ではありませんが、二人とも桑名には戻らず、明治3年にアメリカへ行きました。高木はいったん帰国して、明治5年に大蔵省派遣留学生として、再びアメリカへ行きました。 アメリカでは商業学校で運上所(税関)事務を学び、明治8年に帰国しました。そして森有礼らとともに、商法講習所(現在の一橋大学)の創立に参加し、助教授として商業簿記を講義しました。明治11年には東京の第十五国立銀行(現在の三井住友銀行の前身の一つ)に入りました。明治15年には横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)へ移り、明治25年から27年までニューヨーク出張所主任を務め、のち神戸支店支配人になり、明治31年1月に依願退職しています。

 その後、再び第十五国立銀行に移り、支配人を務めましたが、まもなくぜんそくが悪化して退職し、あとは悠々自適の生活を送り、短歌の道にいそしんでいます。  大正10年(1921年)5月に、桑名の鎮国守国神社に大きな石造鳥居を寄進しています。昭和8年(1933年)1月14日に86歳で東京府玉川村(現在の東京都世田谷区)で亡くなりました。墓は桑名法盛寺の墓地にあります。なお山脇はアメリカから帰国後、横浜で実業家として活躍し、明治38年に亡くなっています。

(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)