郷土史(人物編) - 佐父理希亮
【写真は冷水庵にある佐父理希亮の墓】

 

桑名史上の人たち(2)-佐父理希亮(さぶり まれすけ)-


 佐父理希亮は安永3年(1774年)に、徳島の郊外の農家で生まれました。彼は幼いときから学問が好きで、貧しい生活でしたが、徳島城下の正木氏の下で儒学を学びました。先生である正木氏は彼の将来を見込んで、妹の柔(やわら)と彼を結婚させました。彼は江戸へ出て、幕府の学校である昌平黌(こう)に学びました。
 
 そのころの昌平黌には伊勢菰野出身の平井澹所(たんしょ)が塾監(寄宿舎の監督者)を務めるとともに、教授の補佐役として指導していました。平井も農家の出身であり、学問にすぐれていました。しかし、寛政10年(1798年)に昌平黌の塾監は幕府直属の武士の子弟に限ることになったため、平井は昌平黌を退学し、江戸にある各藩屋敷に招かれて講義をしていました。それらの藩のうちの一つが桑名藩でした。当時の桑名藩主の松平忠翼(ただすけ)は大変に学問好きであり、平井を気に入り、最初は非常勤講師でしたが、のちには二百石取りの桑名藩士に取り立てました。そして文化10年(1813年)に桑名城内に藩の学校として進脩館(しんしゅうかん)を開校し、平井を総督(校長)としました。
 
 平井は桑名に来ましたが、江戸にある各藩屋敷に招かれることが多く、ゆっくり桑名で講義する暇がありませんでした。そのため、昌平黌の後輩である佐父理希亮を桑名の進脩館副教(副校長)としました。希亮は妻とともに桑名へ来ました。そして進脩館の実質的な校長の役割を務め、桑名藩の教育に尽力しました。
 
 しかし、希亮は文政3年(1820年)7月26日に、病のため桑名で亡くなりました。47歳でした。夫婦の間には子どもがなく、妻の柔は夫が異郷の土地で亡くなり、将来は夫の業績がだれにも知られなくなることを嘆いて、自分の身の回りの装身具を売り払い、桑名・上野にある冷水庵の墓地に墓を建てました。墓石には希亮の履歴を刻み込みました。現在も冷水庵に残っています。正面には「阿波処士佐父理君之墓」と刻んであります。処士とは藩士でなく民間人のことですから、彼は正式な藩士に取り立てられず、臨時雇いだったようです。その墓石は亀の形をした台座の上に四角の墓石が乗っている形で、亀趺(きふ)と呼ばれます。日本では珍しい墓石ですが、韓国や中国では高貴な人の墓に見られます。
 
 その亀趺の横には妻の柔の小さな墓もあります。正面には「佐父理君妻正木氏墓」とあり、側面には「いもとせの魂のありかはこことしれ、亀のしるしは万代のため  柔女」と記してあります。彼女は文政9年に亡くなっています。子孫もいない墓ですが、夫婦の愛情が万年の後までも伝えられるように、期待したいと思います。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)