郷土史(人物編) - 珠光院貞姫
【写真は照源寺にある珠光院貞姫の墓】
 

桑名史上の人たち(9) -珠光院貞姫(じゅこういん さだひめ)-


 貞姫は信州松代藩真田幸良(ゆきよし)の長女として、天保5年(1834年)6月15日に松代で生まれました。幸良の父である真田幸貫(ゆきつら)は松平定信の次男であり、松代藩真田家の養子となりました。すなわち貞姫は松平定信のひ孫にあたります。 彼女は18歳(数え年)のとき、嘉永4年(1851年)に桑名藩主松平定猷(さだみち)と結婚しました。定猷も松平定信のひ孫にあたります。天保5年5月生まれですから、夫婦とも同年です。定猷の父である松平定和は若くして亡くなりましたから、定猷は8歳のときに桑名藩主となっています。
 
当時は藩主の妻は江戸に住むことになっていましたから、彼女も桑名には来なくて、江戸に住みました。安政4年(1857年)2月10日に長女春姫(後の初姫)を江戸で産みました。同年4月23日には、定猷の側室が万之丞(まんのじょう)(後の万之助、定教)を桑名で生みました。さらに翌年5月16 日には別の側室が嘉姫(よしひめ)(後の高姫)を江戸で生みました。ところが、夫である定猷は安政6年(1859年)8月22日に江戸で亡くなりました。享年26歳の若さです。貞姫は26歳の若さで未亡人となり、珠光院と名乗りました。
 
桑名藩では、跡取りである万之助はわずかに3歳であり、幕末の多難な折から幼児では心もとなく、急いで美濃高須藩(岐阜県海津市)の徳川家から養子をもらい、定敬(さだあき)と名乗らせ、初姫の許嫁(いいなづけ)としました。文久2年(1862年)には参勤交替制度が緩和され、藩主の妻子は地元へ戻ることが許されました。そのため貞姫と初姫、高姫の3人は同年10月に初めて桑名にやってきました。それ以後は桑名で生活しました。
 
慶応4年(1868年=明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗北しました。この知らせを受けて、桑名城での対応が議論されました。1月10日には全員が江戸へ行き、徹底抗戦との結論が出ました。ところが議論に参加できなかった下級武士から反対意見が出され、翌日珠光院が出席した御前会議が開かれ、戦わずして城を新政府に明け渡すことになりました。戦争による無残な死を避けたいという、女性である珠光院の強い意思が反映したものと思われます。戊辰(ぼしん)戦争が終わり、廃藩置県が行われて、旧藩主一家は東京に住むように政府から言い渡されましたが、彼女は桑名に住み、明治9年11月12日に桑名で亡くなりました。享年44歳でした。桑名照源寺の墓には「珠光大夫人真田氏之墓」とあり、当時の女性は結婚しても実家の姓を名乗っていたことがわかります。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)