郷土史(人物編) - 酒井孫八郎
【写真は、孫八郎が定敬を説得した山上大神宮】
 

桑名史上の人たち(6) -酒井孫八郎(さかい まごはちろう)-


 明治維新当時に桑名藩で最も活躍した家老は、酒井孫八郎です。 酒井家は、初代が桑名藩主松平定綱の家老を務め、以後代々家老職についた家柄で、彼はその十代目にあたります。禄高は四百から五百石で、家老職の中では少ない方でした。孫八郎は服部半蔵家の次男として桑名(吉之丸の服部家)で弘化2年(1845年)11月17日に生まれました。前月号で書きました服部半蔵正義の弟にあたりますが、わずかに2ヶ月ほど遅く生まれています。のちに酒井家の養子となりました。 実兄の正義は軍事面で、孫八郎は財政面で桑名藩を支え、兄弟とも優れた指導者でした。
 
 慶応4年(明治元年=1868年)元旦、彼は数え年24歳の正月を桑名三之丸の自宅で迎えました。藩主の松平定敬と藩士の大半は大坂に滞在していて、戊辰(ぼしん)戦争の前夜という非常時のため、新年の祝賀も行われず、静かな元旦でした。ところが三日に大坂から開戦の連絡が入り、以後目まぐるしい激動が始まります。桑名城を守る筆頭家老として、彼は文字どおり寝食を忘れた激務が続きます。 この正月1ヶ月(旧暦ですから29日間)のうち、彼が自宅へ帰ったのは15日しかなく、それもほとんどは暁に帰り、定刻どおりに出勤しています。そのうち亀山、四日市へ出張して徹夜で帰った日が3日もあります。
 
 この間に桑名城では抗戦か和平かで揺れ動き、ついに和平の結論となり、藩内の統率、和平条件の交渉を、彼は東奔西走してまとめました。正月28日に新政府軍に桑名城を明け渡して、尾張藩の管理下におかれますが、桑名藩再興のための活動や、残っている桑名藩士の生活保障など、新政府および尾張藩との交渉に追われます。
 
 しかし、藩主の松平定敬はあくまで抗戦し、とうとう箱館(現在の函館)まで行ってしまいます。孫八郎は11月8日に桑名を出て、12月7日に横浜から船で青森に向かい、極寒の下北半島をたどって箱館に着きました。 翌明治2年元旦に箱館神明宮(現在の山上大神宮)にいた定敬に、やっと会うことができました。 孫八郎は定敬を説き伏せ、定敬も降伏することにしました。五稜郭の戦いの直前に二人は箱館を出て、まず孫八郎が東京に行って下交渉を行い、その後定敬が東京に行って、桑名藩は正式に降伏しました。桑名藩の再興が許され、孫八郎は兄の服部半蔵とともに桑名藩大参事を務めました。のち東京に出ましたが、維新の激動で精力を使い果たしたのでしょうか、明治12年に35歳の若さでなくなりました。最初は東京深川長専院に葬られましたが、現在は青山墓地に移葬されています。なお、彼以前の酒井家代々の墓は桑名長寿院にあり、昭和10年に累代の墓としてまとめられています。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)