郷土史(人物編) - 小沢圭次郎
【写真は九華公園に今も残る当時の灯ろう】
 

桑名史上の人たち(16) -小沢圭次郎(おざわ けいじろう)-


 小沢圭次郎は天保13年(1842年)4月2日に、江戸築地の桑名藩下屋敷で生まれました。この下屋敷は松平定信(楽翁)が幕府から拝領した屋敷で、楽翁が設計して浴恩園(よくおんえん)と名付けられた名園がありました。圭次郎は桑名藩医師・小沢長安の二男で、江戸で医学・蘭学(らんがく)を学び、22歳の時には長崎へ行き、のちに大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の塾で学びました。そしてそのころから英語を学びました。
 
 幕末の激動期である慶応3年(1867年)12月に、彼も江戸から桑名に来ました。翌年正月には桑名藩は新政府に降伏して、藩士は寺院に入り、謹慎しました。その謹慎中にも彼は英語を独習しました。謹慎が解かれてからは自宅と大矢知で英語を教えました。しかし桑名藩校では「洋学は学問にあらず」といわれ、桑名では洋学を嫌う空気がありました。彼は明治3年(1870年)1月に上京しました。海軍兵学校教官、文部省字書取調掛、東京師範学校長補を経て、明治12年3月から19年5月まで東京学士会院書記を務めました。
 
 東京では新しい首都を建設するため、江戸時代の大名屋敷とそれに付随する庭園が次々と壊されました。この現状を目の前にして、彼は職務の余暇に古い庭園を記録し、資料を収集しました。退職してからは庭園研究にさらに励み、70歳になった明治44年には、東京府立園芸学校の講師となり、終生講義を続けました。大正4年(1915年)には『明治庭園記』を発表しています。彼が収集した資料は800余巻となり、現在は国立国会図書館に所蔵されています。
 
 彼は単なる庭園史の研究家でなく、自らも日本式庭園の設計(彼は設景と言っています)を行っており、大阪天王寺公園、伊勢内宮・外宮の外苑、ロンドンの日英博覧会などの庭園設計をしています。桑名では昭和3年(1928年)に楽翁公百年祭にともない、旧城内の整備が図られ、彼が設計した九華公園ができました。
 
 東京の日比谷公園の設計コンペでは日本式庭園案を出しましたが、西洋風が流行していたため、彼の案は不採用となりました。若いころには洋学を志しながら、途中から日本式庭園研究家となったのは、彼が生まれ育った浴恩園が海軍用地となって失われたことがきっかけとなり、庭園研究に駆り立てられたからだと思われます。そこには新政府への反抗心が潜んでいたと考えるのは、考え過ぎでしょうか。 彼は庭園研究のほか、漢学への造詣(ぞうけい)も深く、大正8年までに漢詩文集『晩成堂詩草』15巻を書いています。家庭的には恵まれず、4度も結婚しながら娘は1人で、その娘も若くして亡くしています。彼は昭和7年1月12日に亡くなりました。享年91歳でした。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)