郷土史(人物編) - 松平定教
【写真は法泉寺の寺宝である定教の書】
 

桑名史上の人たち(12) - 松平定教(まつだいら さだのり)-


 松平定教は安政4年(1857年)4月23日に、桑名で生まれました。父は桑名藩主の松平定猷(さだみち)、母は側室の渡辺氏でした。最初の名前は万之丞(じょう)、のち万之助となり、さらに定教となりました。安政6年に父の定猷が亡くなったとき、彼はまだ3歳(数え年)の幼児でした。そのため美濃高須藩から定敬(さだあき)が養子として迎えられ、藩主となりました。
 
 慶応4年(明治元年=1868年)正月の鳥羽伏見の戦いで桑名藩軍は敗北し、藩主の定敬は江戸へ行ってしまいました。桑名城では対応策を検討して全員が江戸で戦うことを決めました。1月10日、万之助は全員を集めて、城中で別れの酒を酌み交わしました。ところが翌日になって対応策は変更となり、新政府に降伏することになりました。桑名へ向かって攻めてきた新政府軍に降伏するため、1月23日に万之助は家老などを引き連れて、四日市の新政府軍陣営に出頭しました。その時の万之助はまだ12歳でした。
 
桑名藩は名古屋(尾張)藩と津藩の管理下に置かれました。万之助は四日市北川原町(現在の京町)の法泉寺(ほうせんじ)に幽閉されました。法泉寺では人々の出入りが禁じられましたので、檀家も参詣できずに困ったということです。万之助は閏(うるう)4月29日に桑名本統寺(ほんとうじ)に移り、謹慎しました。さらに10月には城内の御殿に移りました。
 
 明治2年8月15日、桑名藩は名古屋藩と津藩の管理を解かれ、6万石の桑名藩として再興されました。万之助は8月25日に桑名を出発し、9月8日に東京に到着しました。13日には天皇に拝謁し、20日に従五位桑名藩知事に任命されました。この時から公式に「定教」の名前が使われています。
 
 明治4年7月15日、廃藩置県が実施され、桑名藩は桑名県と変わりました。定教は桑名藩知事を解かれ、9月7日に桑名を出発し、18日に東京へ着き、それ以後は東京で住むようになりました。明治5年には横浜に下宿して、数人の旧桑名藩士と一緒に英語を学びました。さらに7年11月20日に横浜港からアメリカへ渡り、ニュージャージー州ニューブランズウィック市のラッガース大学に入学しました。その時には旧桑名藩士の駒井重格(じゅうかく)が付き添って行きました。定教は理科を学び、駒井は経済学を学びました。

定教は明治11年12月8日に帰国し、13年には外務省イタリア公使館勤務となり、さらに17年には子爵を与えられ、式部官を務めました。30年には正四位となり、貴族院議員に選ばれました。しかし、32年5月21日に亡くなりました。享年43歳です。東京染井墓地にお墓があります。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)