郷土史(人物編) - 松平定敬(1)
【写真は定敬の書(市博物館蔵)】
 

桑名史上の人たち(10) -松平定敬(まつだいら さだあき)-


 松平定敬は弘化3年(1846年)12月2日に美濃高須藩(岐阜県海津市)藩主松平義建の七男として生まれました。母は側室の今西氏です。兄は11歳年上で、すでに会津若松藩松平家へ養子に出て、容保(かたもり)と称してしまいた。二人は歳が離れ、幼いときに一緒に暮らしていないにもかかわらず、兄弟として仲が良かったといわれています。
 
前月号で書きましたように、桑名藩主松平定猷(さだみち)が安政6年(1859年)に江戸で亡くなりました。跡継ぎとなるべき定猷の長男(万之助)はわずかに3歳(数え年)であり、幕末の多端な折から幼児ではおぼつかなく、定猷の長女である初姫に急いで婿養子を迎えることになり、高須藩から定敬を養子として迎えました。同年10月1日に家督相続が幕府から認められ、定敬は同月3日に高須藩江戸屋敷から、桑名藩江戸屋敷に移ってきました。そのとき定敬は14歳、初姫はまだ3歳であり、結婚には至らず、婚約でした。
 
桑名藩主となった定敬には、先代から受けついだ京都警衛役の仕事がありましたが、京都の仕事は部下に任せて、もっぱら江戸で幕府の御用を勤めました。万延元年(1859年)には江戸詰を解かれて桑名に来ることになっていましたが、幕府から許可が出ず、江戸詰のままでした。文久2年(1862年)になって、やっと桑名へ戻ることが許され、7月2日に初めて桑名城に入りました。翌文久3年(1863年)には将軍徳川家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)警備のため、定敬は2月21日に桑名を出発し、24日には京都に着きました。しかし、イギリスとの戦争の危険が高まったので、桑名防備のため、3月10日には桑名へ戻り、5月10日に桑名発、12日に京都着。6月24日に桑名へ戻り、26日には桑名を出発して江戸へ行き、さらに12月12日に江戸発、21日に桑名着。23日には桑名発、28日大坂着と、桑名でゆっくりしている暇もなく、ハードなスケジュールに追われました。
 
翌文久4年(1864年)1月14日に家茂とともに大坂を出発し、翌日に京都に着いています。このころは尊皇攘夷(じょうい)、公武合体で日本中が揺れ動いている時期でした。そして同年4月11日には、京都所司代に任命されました。京都所司代は幕府の代表として朝廷との交渉にあたる重要な役職であり、複雑な政情の京都で、定敬は孝明天皇の厚い信頼を得て公武合体に努めました。しかし、大政奉還と、続く薩摩藩と長州藩の欺まんによる王政復古によって、慶応3年(1867年)12月9日に京都所司代の職を解かれました。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)