郷土史(人物編) - 松平定敬(2)
【写真は鎮国守国神社にある戊辰殉難招魂碑】
 

桑名史上の人たち(11) -松平定敬(まつだいら さだあき)【2】-


 慶応4年(1868年)1月3日に、京都郊外の鳥羽伏見で戦いが始まりました。定敬は元将軍の徳川慶喜や兄の松平容保(かたもり)らとともに大坂城にいました。鳥羽伏見で旧幕府軍の敗退が決定すると、慶喜・容保・定敬らは船に乗って、江戸に着きました。しかし、新政府軍が江戸へ攻めてきたので、3月16日に定敬はプロシアの船に乗り、津軽海峡を通り、3月30日に桑名藩分領地である越後柏崎に着きました。
 
 ここへも新政府軍が攻めてきたので、定敬は閏(うるう)4月16日には柏崎を出発し、兄の松平容保のいる会津若松へと向かいました。さらに新政府軍が会津若松へ攻めてきたため、会津若松を出て米沢、福島などを経て、仙台に着きました。しかし、仙台藩は新政府軍に降伏していたために仙台に入ることはできず、たまたま停泊していた、榎本武揚の率いる旧幕府海軍の艦隊に乗り込み、箱館(現在の函館)まで行きました。箱館では特別な役割もなく、英語の勉強をしていました。
 
 「酒井孫八郎」のところで書きましたように、桑名から酒井孫八郎が箱館まで来て定敬を説得しました。定敬もとうとう降伏することになりましたが、箱館を脱出する船便がなかなか得られず、新政府軍が箱館を攻撃する寸前の明治2年4月13日、やっと外国船に乗ることができました。同月25日に上海に到着し、5月10日に上海を出発、18日に横浜に着きました。21日に東京へ出て、正式に降伏しました。
 
その後は身柄を東京の名古屋藩屋敷、津藩屋敷へ預けられました。明治4年3月15日には津藩屋敷から桑名藩屋敷に移され、同月27日に東京を出て、4月7日に桑名に戻ってきました。実に7年ぶりの帰郷です。翌明治5年1月6日には反逆の罪が許されました。そして許嫁(いいなずけ)であった初姫と正式に結婚しました。同年11月にはヨーロッパへ旅行しています。明治27年には日光東照宮の宮司となり、明治41年7月21日に亡くなりました。死没直前に従二位を授けれられています。これは桑名藩歴代藩主では最高の位です。
 
定敬は古い体制にしがみついた頑迷な保守主義者だったとは考えられません。京都所司代時代には惣(そう)髪にし、洋装で都大路を馬に乗っていたといわれますし、箱館では英語の勉強もしています。徳川家への忠節を守り、最後は東照宮の宮司として徳川家を守っています。彼は九華公園にある「戊辰(ぼしん)殉難招魂碑」の碑文を書いており、「守節取義各殉其難」の言葉の中に彼の心中がしのばれます。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)