郷土史(人物編) - 鳥居強右衛門
【写真は専正寺にある鳥居一族の墓】
 

桑名史上の人たち(1)-鳥居強右衛門(とりい すねえもん)-

 初代鳥居強右衛門勝商(かつあき)は大正2年(1913年)発行の国定教科書『尋常小学読本巻12』(6年生用)に掲載されましたので、とくに有名になりました。また昭和17年(1942年)には内田 吐夢(とむ)監督の松竹映画となり、主役の強右衛門は小杉勇、その妻に水戸光子、奥平貞昌には東野英治郎、武田勝頼に月形龍之介が出演しました。初代強右衛門は三河長篠城主奥平貞昌の家臣で、長篠の戦いのときに大活躍しました。天正3年(1575年)、長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、食料も乏しく、苦戦していました。岡崎の徳川家康に援軍を求めたくても使者が城から抜け出ることもできません。強右衛門は自ら志願して使者となり、武田軍の厳重な包囲網を突破して、岡崎に向かいました。岡崎で徳川家康と織田信長に会って、援軍を頼みました。ただちに援軍を出すとの返答をうけて、強右衛門は長篠に戻りましたが、城中に入ることができず、武田軍に捕えらえられてしまいました。
 
 武田軍では「援軍は来ないと大声で伝えよ、そうしたら命は助けてやる」と強右衛門を城門前に連れて行きました。そこで強右衛門は大声をあげて「近く、徳川織田連合軍が助けにやってくる」と叫びました。これを聞いて城内は大喜びし、武田軍ではすぐに強右衛門を殺してしまいました。
 
 徳川織田連合軍が到着するとともに、長篠・設楽原の戦いが始まりました。この戦いは日本で初めて本格的に鉄砲が使用された戦いとして有名です。またこの戦いに勝利して、織田信長は天下の統一へ近付きました。信長は奥平貞昌の功績をたたえ、貞昌に自分の「信」の一字を与え信昌と名乗らせ、家康の長女亀姫を信昌の妻とさせました。
 
 信昌と亀姫の間に4男と1女が生まれ、そのうちの第四男は分家して、松平下総守忠明(しもうさのかみただあき)となりました。初代鳥居強右衛門勝商には子どもがおり、二代強右衛門は忠明に仕えました。以後、代々強右衛門を襲名し、松平(下総守)家に仕えています。松平家は宝永7年(1710年)に桑名城主となりましたので、六代強右衛門清商も桑名に来て、桑名で亡くなり、新屋敷にあった桃林寺に葬られました。以後、十一代強右衛門まで桃林寺に葬られましたが、文政6年(1823年)に松平家は桑名から武蔵国・忍(おし)(現行田市)に移りましたので、鳥居家も桃林寺も忍に移ってしまいました。
 
 鳥居家の墓は桑名に残ったままで、真如寺が管理していましたが、日進小学校の拡張や都市計画道路の建設などで、鳥居家の墓碑七基(七代、九代、十代、十一代の四基と関係者三基)は今中町の専正寺の墓地に移されて現存しています。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)