郷土史(人物編) - 富樫広蔭
【写真は喜田華堂作といわれる富樫広蔭画像】
 

桑名史上の人たち(13) -富樫広蔭(とがし ひろかげ)-



 富樫広蔭は本居宣長の学問を受け継ぎ、日本語文法の体系化を完成しました。その体系は、今日まで通説として受け継がれています。
 
 現在ではあまり知られていませんが、広蔭は松阪の本居宣長・大平・春庭、津の谷川士清(ことすが)とならぶ有名な国学者でした。彼は、寛政5年(1793年)12月19日、紀州和歌山城下の木綿問屋・井出家に生まれました。
 文政3年(1820年)、28歳(数え年)のときに本居大平に入門しました。大平は本居宣長の養子であり、宣長の学問を受け継いだ国学者で、和歌山にいました。広蔭は、文政5年には大平の養子となっています。
 しかし翌年には大平との養子を解消して富樫姓を名乗り、富樫広蔭と称しました。
そして松阪の本居春庭の弟子となり、松阪に移りました。
 
 文政11年に春庭が亡くなり、翌年に広蔭は桑名に移りました。なぜ桑名に移ったのかはっきりしませんが、当時の桑名・矢田町の大きな商人であった竹内南淵が本居大平・春庭の弟子であったことから、竹内が広蔭のスポンサーを引き受けたのではないかと推定されます。
 
 広蔭は桑名で結婚し、桑名春日神社の神職を務めました。その間、国語学の研究に励んでいます。また各地で講義して、天保元年(1830年)ごろの門人は10か国、172人に及んでいます。嘉永3年(1850年)には春日神社の社家・鬼島家を継ぎました。安政2年(1855年)に朝廷から従五位土佐守に任ぜられ、藤原姓を許されました。安政5年には神職を辞任し、その後はもっぱら研究活動に専念しましたが、文久3年(1863年)に住居が全焼して、多くの原稿が焼失してしまいました。
 
 彼は「古事記」「日本書紀」「万葉集」「古今集」「土佐日記」「源氏物語」などを研究していますが、中でも「古今和歌集紀氏直伝解」(自筆本は現在、愛知県立大学が所蔵)は35巻に及ぶ大作です。また、歌集として「言幸舎(ことさちのや)歌集」など、随筆として「塊老(つちくれのおぢ)翁随筆」があります。
 
 広蔭は明治6年(1873年)8月24日に81歳で亡くなり、大福田寺の墓地に葬られました(現在の墓石には「享年八十有四」とありますが、81歳が正しい)。明治16年には弟子たちが桑名皇学会を設立して、彼の学問を受け継いでいます。
 
 彼の著作の内、学問的に最も貴重な著作である「詞玉橋(ことばのたまはし)」は明治24年に桑名皇学会から出版されています。彼の膨大な蔵書は各地に散逸していますが、まとまったものとしては東北大学図書館の「富樫広蔭叢書」、愛知淑徳大学の尾崎知光(さとあきら)教授が収集されたものが知られています。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)