郷土史(人物編) - 服部半蔵
【写真は服部半蔵正義の日記】
 

桑名史上の人たち(5) -服部半蔵(はっとり はんぞう)-


 初代服部石見守半蔵正成(まさなり)は徳川家康の部下で、忍者集団の頭領として、歴史上で有名な人です。江戸城で彼が守っていた門は半蔵門と呼ばれ、現在も東京に残っています。彼の息子は兄が石見守正就(まさなり)といい、弟が二代目半蔵正重(まさしげ)と称しました。正就の妻は桑名藩主松平定勝の娘でした。この正就は不祥事を起こして家康から暇を出されたため、妻は三人の息子を連れて実家に戻り、息子たちは松平家に仕えました。定勝の息子の代に松平家は松山、桑名、今治に分かれましたので、服部家の息子たちも三つの地に分かれました。次男は石見守正辰(まさとき)と称して桑名松平家の親族として代々続きました。一方、二代目半蔵正重も徳川家から暇を出されて、桑名松平家に仕えるようになりました。
 
 十二代目の服部半蔵正義(まさよし)は弘化2年(1845年)9月29日に生まれました。慶応元年(1865年)、21歳にして家督を継ぎ、桑名藩家老となりました。 当時桑名藩主の松平定敬(さだあき)は京都所司代として京都で活躍していましたから、半蔵も京都にいて藩主を補佐していました。そして慶応3年の藩政改革で御軍事惣宰となりました。
 
 慶応4年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いに彼も参戦しましたが、前月号に書きました吉村権左衛門宣範と同様に、大坂から江戸を経て、越後柏崎に到着しました。柏崎で軍制の立て直しがなされ、彼は改めて御軍事惣宰(おんぐんじそうさい)となり、桑名軍全体を指揮しました。その後の桑名軍は長岡城の攻防戦や会津若松の戦いなどに参戦しています。この間の記録を彼は書きとめていますが、それによると相手側の新政府軍を「賊」とか「薩賊(さつぞく)」と書き、桑名こそ正しい立場であるとの信念で戦っています。しかし、頼みとする東北各地の藩が降伏したため、ついに9月26日に庄内(山形県鶴岡市)で降伏しました。
 
 庄内藩に身柄を拘束されていましたが、翌明治2年2月5日に庄内藩の護衛のもとに、庄内を出発し、東京を経て、4月5日に七里の渡しを通り、無事桑名に帰りました。彼は思わず涙を流したと書いています。当時の桑名はまだ名古屋藩の占領下におかれていましたから帰宅は許されず、十念寺に収容され、謹慎しました。8月に桑名藩の再興が許され、11月には戦争責任者として桑名藩の森陳明(つらあき)が切腹の刑を受けて、桑名藩への戦後処理が完了しました。そして12月には半蔵たちの謹慎も解かれて、自由の身となりました。その後の半蔵は桑名藩大参事や第三大区長(桑名郡長)などを務めました。明治19年に桑名で亡くなり、顕本寺に葬られました。墓石は一時無縁仏の中にありましたが、現在は独立して立っています。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)