郷土史(人物編) - 柳本通義
【写真は照源寺にある墓】
 

桑名史上の人たち(18) -柳本通義(やなぎもと みちよし)-


 柳本通義は安政4年(1857年)10月17日、桑名南寺町で 父・桑名藩士柳本通徳と母・咲との間に長男として生まれました。明治5年(1872年)に桑名義塾で英語を学びましたが、翌年に上京し、姉婿の館潔彦(旧桑名藩士。測量技師で、近代的な測量術で初めて5万分の1の地図をつくった)宅に住みました。その年の夏には横浜に移り、旧桑名藩主である松平定教らとともに、ブラウン塾で英語を学びました。明治8年に東京英語学校に入学しましたが、生活は苦しく、学費や生活費に困りました。
 
 そのころ、政府は札幌農学校(北海道大学の前身)を開くことになりました。この学校では衣食住は全部無償であるうえに、小遣いも支給されました。明治9年の開校とともに、彼は第1期生24人の1人として入学しました。授業はすべて英語で、洋食・洋服の生活でした。有名なクラーク博士が在職したのは1年間だけで、彼ら第1期生のみが博士の直接の薫陶を受けました。
 
 明治13年に卒業しましたが、同期生のうち卒業したのは13人だけで、彼らは日本で最初の農学士の称号を与えられました。札幌農学校卒業生は5年間、北海道で勤務する義務があり、彼は開拓使御用掛に採用され、七重勧業試験場勤務となりました。このときに西村なを子(通徳の弟である西村徳右衛門の娘)と結婚しています。
 
 明治15年には七重勧業試験場は農商務省管轄となり、さらに明治19年には北海道庁発足とともに、北海道庁管轄となりました。そのときに彼は北海道庁函館支庁勤務となりました。以後北海道庁職員として道内各地で勤務しました。
 
 明治29年には台湾総督府の拓殖課長となり、台北に赴任しました。家族は桑名から京都に移り住み、彼は単身赴任でした。明治40年、台湾総督府を辞職し、家族のいる京都に戻り、しばらく静かな生活を送りました。大正元年(1912年)に兵庫県の工事技師となり、大正4年まで勤めました。妻のなを子は大正8年に亡くなり、桑名照源寺墓地に葬られました。彼は翌年に桑名に戻って紺屋町に住み、岩田ますと再婚しました。
 
 大正13年には桑名鎮国守国神社に釣灯ろう1対を寄進しています。翌年には桑名町会議員になり、1期務めました。昭和2年(1927年)に西鍋屋町に転居しました。昭和5年に照源寺の檀家総代として書院改築にあたり、昭和8年には楽翁公没後百年祭記念大祭の協賛会残務委員長として、「楽翁公百年祭記念宝物館」を起工し、翌年完成させました。
 
 昭和12年10月17日、桑名市西鍋屋町の自宅で死去し、先妻の待つ照源寺墓地に葬られました。享年81歳でした。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)