郷土史(人物編) - 立見尚文
【写真は、立見尚文の肖像画(鎮国守国神社所蔵)】
 

桑名史上の人たち(7) -立見尚文(たつみ なおふみ)-


 明治維新当時に、桑名藩の行政面で最も活躍した酒井孫八郎のことは前号で紹介しましたが、軍事面で最も活躍したのは立見尚文です。彼は弘化2年(1845年)7月19日に桑名藩江戸屋敷の町田家で生まれ、のちに立見家の養子となりました。
 
桑名藩主の松平定敬(さだあき)が京都所司代になると、彼は定敬に従い、京都詰となり、幕末の京都での動静をつぶさに体験しました。第1次長州戦争の際には長州まで軍事視察に出かけています。
 
慶応4年(明治元年=1868年)正月、彼は24歳(数え年)を大坂で迎えました。 そして続く鳥羽伏見の戦いに参戦し、のち江戸に行き、桑名軍を指揮し旧幕府軍とともに宇都宮城を攻め落としました。その後、定敬が越後柏崎にいるとの連絡で、桑名軍を引き連れて柏崎に行きました。 柏崎で桑名軍の再編成が行われ、彼は雷神隊の隊長に選ばれました。 北越後、東北での新政府軍との戦いにすばらしい指導力を発揮し、「桑名に立見あり」と新政府軍に恐れられました。しかし、相手は多数であり、味方は少数のため、撤退を重ねて、とうとう庄内 (現在の山形県鶴岡市)で降伏しました。
 
維新後は裁判所の書記官に就任しましたが、明治10年(1877年)、西郷隆盛が西南戦争を起こすと、新政府の求めに応じて桑名の旧士族を編成し、薩摩の西郷軍を攻めました。桑名にとって、薩摩は「幕末の裏切り者」であり、「うらみ」を晴らすための絶好の機会でした。西南戦争で功績を挙げた立見は陸軍少佐となり、日本陸軍の軍人として出世します。 明治27年の日清戦争では第10旅団長(少将)として朝鮮半島へ出陣しています。この時の功績により 男爵の爵位を受けました。維新戦争で反対側だった立場では異例の昇進です。
 
 第8師団(青森県弘前市)の師団長であった立見中将は、日露戦争の黒溝台会戦で活躍し、大きな戦果をあげました。長州出身の乃木大将は、日露戦争の立役者としてその後の歴史上で高く評価されていますが、 桑名の立見尚文も高く評価されるべきなのです。
 
当時の薩長門閥(ばつ)政権では、維新の敗者であった桑名出身者に対しては低い評価しか与えられませんでした。しかし、日露戦争の功績で、立見は大将に昇進しました。門閥に頼らず、実力で大将になったのです。彼は明治40年3月6日に東京で亡くなりました。その葬儀には、明治天皇から供花料も寄せられました。 また、長州の山県有朋(やまがた ありとも)元帥と薩摩の大山巌(いわお)元帥が参列し、  頭を深くさげました。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)