郷土史(町村編) - 七和村
【写真は安渡寺の聖観音立像(市指定文化財)】

桑名市になった町村  -七和村-

 七和村は昭和二十六年(1951年)三月二日に桑名市と合併しました。七和村は員弁郡に属しており、郡境を越えての合併でした。江戸時代にあった五反田村、大仲新田、巌新田(いわお)、嘉例川村、芳ヶ崎村、森忠村、星川村が明治二十二年(1889年)に合併して七和村ができました。七か所が合併したので、七和村と命名されました。この地区には弥生時代の土器があったようですが、詳しくは不明です。奈良時代から平安時代にかけては窯跡が見つかっています。そのうち七和二号窯跡は大山田団地開発の時に、発掘調査されました。近くにあった額田廃寺や七和廃寺との関係が想像されます。跡地の現在は野田五丁目にある調整池となっています。
 
 星川は大和(奈良県)の星川から移住してきた人びとによって開発されたと考えられています。平安時代の終わりごろの文献には「星川市庭(いちば)」とあり、物資交換の市場があり、港もあったと記録されています。員弁川(町屋川)を通じて、この付近の中心的な場所になったと思われます。星川にある安渡寺の本尊は平安時代中期の聖観音立像です。この寺は鎌倉時代に星川観音堂として、近隣に名高い寺でした。また星川神社は平安時代初期の「延喜式」に記録されている古い神社です。室町時代末期には、星川城と羽笠(芳ヶ崎)城と嘉例川城がありました。いずれも詳しい事は不明です。ほかに時代不明ですが、芳ヶ崎に百済城があったといわれます。渡来人に関係があるかもしれません。
 
 江戸時代には員弁街道が通り、交通の便利なところで、わずかながら商工業もありました。明治二十五年には阿下喜~馬道間の乗合馬車が開通しました。さらに大正三年(1914年)には、北勢鉄道(現三岐鉄道北勢線)が開通しました。この鉄道は員弁川の砂利を運ぶ事を目的の一つにしていましたから、星川では河原まで側線が延びていました。星川駅もできましたが、のちに廃止されました。七和村は大正九年の第一回国勢調査では、総人口千四百八十九人、職業人口八百七十一人のうち農業が七百二十二人で、農業が主体でした。その後は人口も次第に増えて、昭和十五年には千六百二十六人、昭和二十五年には二千二百八十九人(いずれも国勢調査)となっています。昭和三十四年の伊勢湾台風以後に住宅開発が進み、さらに郊外型大型店舗が次々にできて、近年大きく変ぼうしました。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)