桑名市になった町村  -城南村-

 城南村は昭和三十一年(1956年)九月一日に桑名市と合併しました。江戸時代からあった東野村、赤須賀新田、小貝須村、大貝須新田、福地新田、萱町新田、福江新田、小泉新田、和泉村、安永村が明治二十二年(1889年)に合併して城南村ができました。城南地区は主に海岸部を干拓してできた土地が多く、古代の遺跡らしいものはほとんど見られません。鎌倉時代の文永八年(1271年)に益田荘から安永郷が分離された記録があります。その時の様子では、東の海がようやく干拓され始めたようです。和泉には鎌倉時代の遺跡らしいものが見られます。 また室町時代末期には安永城がありました。江戸時代には東海道が安永を通っています。街道の両側には茶店が立ち並び、桑名宿と四日市宿との間にあって、小休止する立場(たてば)【街道などで休息をするところ】でした。町屋川の上流からの物資が船で運ばれ、ここで荷揚げされ、にぎわっていました。

 文政元年(1818年)には常夜燈が建てられ、現在も残っています。町屋川の中州にかけて、大小二本の橋がかかっていました。低い橋だったので、大水が出ると水中に隠れてしまい、通行止めになりました。嘉永五年(1852年)には、一本の大きな橋ができ、橋の途中には馬がすれ違う待避所もありました。

 新田といわれた所は、江戸時代に干拓された所ですが、高潮によって何度もつぶされました。万延元年(1860年)の高潮では、福本、福岡、大平、末広、一之新田が海になってしまい、明治時代になって福地新田として復旧しています。干拓事業は昭和二十一年からも進められ、同三十三年に完成しました。しかし翌年の伊勢湾台風による高潮に襲われて干拓地は海水に漬かり五十五人の犠牲者を出してしまいました。その後復旧され、昭和五十四年に記念碑が建てられました。

 赤須賀新田(現在は地蔵)の地蔵堂は揖斐川沿いにあり、桑名郊外の景勝地として、人々に親しまれました。貞享元年(1684年)には俳人松尾芭蕉も訪れています。明治時代の河川改修の時に、ここの土地は削られましたので、今の地蔵堂の位置は芭蕉のころとは違っています。 大正九年(1920年)の国勢調査では、総人口二千六百五十八人、職業人口千四百九人のうち農業が千二十九人と農業が圧倒的に多いのですが、漁業も見られました。農業地帯にもかかわらず、昭和二十年に空襲をうけ、小学校が焼失しました。昭和二十五年の人口は四千三百三人で、大正九年から三十年間で約一・六倍になっています。

(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)