桑名市になった町村  -深谷村-

 深谷村は昭和三十年(1955年)二月一日に桑名市と合併しました。江戸時代からあった下深谷部村、上深谷部村、今島村が明治二十二年(1889年)に合併して深谷村ができました。深谷地区の丘陵地帯には、いくつかの古墳があり、桑名北高校付近などでは貝塚も見つかっています。古墳時代以後かなりの集落があったと思われます。深江神社は平安時代初期の「延喜式」に記録されている古い神社です。今島は平安時代ころに島が形成されたようです。

 鎌倉時代の文永八年(1271年)に益田荘から深矢部郷が分離された記録があります。このころに、益田荘の地頭職の二階堂行氏(ゆきうじ)は娘の延寿御前に深矢部郷を与えています。その中には「おかこえ(岡越)」「たかふろ(高風呂)」などと、現在の小字名もすでに見られ、深矢部郷の範囲は今の深谷地区とほぼ同じと思われます。室町時代の文明十五年(1483年)には、小早川元平が深矢部郷を預けられていますが、天文八年(1539年)には二階堂氏が深矢部郷の返還を要求しており、深矢部の名前が文献にしばしば登場しています。

 室町時代末期には、上深谷部に堺城、三砂城、下深谷部には北廻城(きたはざま)、柳ヶ島城、山ノ城城とがありました。いずれも織田信長の侵攻によって滅ぼされましたが、北廻城は堅固な城であり、信長勢も攻めあぐねて、ついにトンネルを掘って、地下から攻め登りました。なお、北廻城主であった近藤氏の子孫は裕泉寺(今島)と西林寺(下深谷部)、柳ヶ島城主であった安藤氏の子孫は安養寺(下深谷部)の住職になっています。

 江戸時代には美濃街道が通り、揖斐川沿岸の船便もあり、商工業も発達しました。とくに下深谷部村は桑名郡では最大の人口がある村でした。大正八年(1919年)には大垣~桑名間の養老鉄道(現近鉄養老線)が開通しましたが、下深谷駅ができたのは、大正十年八月一日でした。最初は蒸気機関車でしたが、大正十二年に電化されて養老電鉄となりました。昭和六年一月十六日には深谷電話局が開局し、同電話局は昭和十二年には自動ダイヤル化されました。岐阜・三重県下では最初の自動化です。大正九年の第一回国勢調査では、総人口二千九百六十五人、職業人口千六百二十九人のうち農業が八百五人、商工業が七百三人と、商工業が多い村でした。昭和二十五年の人口は五千三百六十八人で、大正九年から三十年間で一・八倍になっています。

(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)