桑名市になった町村  -赤須賀村-

 赤須賀には永禄4年(1561年)に三河国市場村(現在の愛知県幸田町)から移住してきた人たちが住みつき、漁業を営みました。その後、赤須賀新田(現在の地蔵)が開かれ、江場村からの農民とともに、赤須賀漁民は全員移転しました。元の地は武家屋敷となって、今は元赤須賀と呼ばれています。さらに赤須賀の人たちが住む町が形成され、赤須賀新田から独立し、猟師町赤須賀と呼ばれました。狭い土地に密集して住みましたので、俗に「猫飛び町」といわれました。享保2年(1717年)には魚市場も開設されました。また、住民は七里の渡しを通行する諸大名に提供された御座船の水夫をつとめました。江戸時代終わりころの記録では502軒、2,359人、船209隻、その内猟船167隻、買舞(かいまい)42隻とあります。買舞とは商品を船に積んで売り回る商船です。
 
 明治の初めころには802戸、2,922人でした。明治22年(1889年)に市町村制が実施されたとき、赤須賀新田の一部を含めて赤須賀村となりました。その後大正9年(1920年)の第1回国勢調査では、赤須賀村は696世帯、2,908人です。その職業人口は1,029人で、水産業が467人、商業277人、交通業100人でした。
 
 明治になると七里の渡しがさびれましたので、赤須賀の人たちは買舞に力をいれました。これは赤須賀船と呼ぱれました。尾鷲など南北牟婁郡地方に明治10年すぎから赤須賀船が往来しました。米などの食料品や日用雑貨品を積んで行き、生魚や薪、炭を買ってきました。最初は帆船や櫓(ろ)船でしたが、大正初めには動力船も登場し、いかに速く生魚を運ぶかを競いました。赤須賀船は米などの必需品を持ってきてくれて、魚を買い上げてくれるので、牟婁郡地方の人たちの生活に大きな役割をはたしました。しかし戦争で人手も船も不足し、さらに戦後は鉄道の紀勢本線が全通したため、赤須賀船の役割もなくなってしまいました。
 
 明治19年から始まった木曽三川改修工事のため揖斐川の沿岸が削られ、新しく北の方を埋め立てたりして、大半は移転しました。村の北端に神明社は移転しました。村内の町名は大正時代に現在のような開勢町、市場町、蛭子町、弁天町、宮本町、港町となりました。それまでは江戸時代から一番組から六番組に分かれていました。
 
 先月号でも書きましたが、大正10年ころから桑名町との合併間題が始まり、難航しましたが、諸戸精太氏のあっせんにより、大正12年に桑名町に合併しました。この記念碑は現在、赤須賀神明社に建っています。先に述べましたように、狭い土地のため小学校用地も十分でなく、町外の城南村地内に桑名町立第四尋常高等小学校(現在の城東小学校)が昭和8年(1933年)に新築移転されました。
 
(元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)