郷土史研究の歴史(3) - 郷土史(郷土史研究の歴史)
【写真は市博物館にある沼波弄山の画像】
 

郷土史研究の歴史(3)  -沼波弄山について-


 歴史は人間社会のあらゆる面に関係しております。そのため郷土史を研究していますと、周囲の方からは書画などの古美術品にも知識があるかのように思われがちなのですが、私は古美術品に関してはほとんど知識はありません。桑名には有名な万古焼がありますが、万古焼を始めたのが桑名の沼波弄山であるという知識を持っていた程度です。ところが桑名市立文化美術館(現在の桑名市博物館)が開設されたときに、初めて古万古焼を見て驚きました。それにはアルファベットらしい文字と異国風の絵が描かれていました。
 
 鎖国していた江戸時代の桑名に、なぜ外国の文化が取り入れられているのかを考えてみますと、桑名が東海道筋であったからに違いありません。長崎に着いたオランダ人が江戸へ行く際には桑名を通りました。桑名の人たちはオランダ人を見て、当時では珍しい異国の文化・文明に接することができたと思われます。
 
 万古焼の祖である沼波弄山は、享保3年(1718年)に桑名・船馬町の商家に生まれました。沼波家は江戸店持(たなもち)商人でした。当時の地方商人で江戸に店を持っているというのは、かなりの豪商です。桑名には江戸店持商人として山田家もありました。山田家の広壮な屋敷は現在は西諸戸家の屋敷となっており、三重県指定の文化財になっています。その山田家と沼波家とは姻戚関係にありました。初代山田彦左衛門の妹は沼波家に嫁ぎ、四代山田彦左衛門の妻は沼波家から嫁いでいます。また弄山の娘も山田家に嫁いでいます。
 
 さらに沼波家は射和(現在の松阪市)の豪商である竹川家とも姻戚関係があり、弄山の高祖父の妻と弄山の妻は竹川家の出身です。竹川家は近江の有名な武将である浅井長政の子孫であり、幕府の御用も務めた江戸店持商人でした。これらのことから沼波家は山田家や竹川家に匹敵する豪商であったことがうかがえます。
 
 弄山は若いころに京都ヘ商売の修業に行き、そのときに茶道と陶芸を学びました。桑名に戻ってから商売の傍らに、名谷山(現在の朝日町)に窯を作り、趣味として陶器を制作しました。異国風の模様を持った万古焼は、東海道を通る旅人の口コミで伝えられ、江戸でもてはやされました。そのため弄山は江戸向島小梅村(現在の東京都墨田区)の別荘で陶器制作に専念し、将軍家の茶道具の御用達ともなりました。
 
 彼は安永6年(1777年)に江戸で没しましたが、墓は桑名の光徳寺にあります。彼の子どもは作陶を好まなかったので、万古焼は一時途絶えましたが、後に桑名・田町の森有節・千秋の兄弟によって復活されました。
 

                            (桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)