郷土史研究の歴史(5) - 郷土史(郷土史研究の歴史)
【写真は照源寺にある館潔彦の墓】
 

郷土史研究の歴史(5)  -館 潔彦(たて きよひこ)について-


 20年ほど前だったと思いますが、朝日新聞に、桑名出身の館潔彦は、日本アルプスの山々を最初に踏破したと書いてありました。私は、それ以来、館潔彦のことが気になったままでしたが、いっこうに資料が見つからず困っていました。ところが、今年になって館潔彦のことを書いた本があることを市立図書館の人から教えていただきました。
 
 この本を書いたのは北海道の人です。地元桑名の人でも知らないことが、北海道の人によって解明されていたのです。桑名の郷土史を調べている私もまだまだ大きな顔ができません。
 館潔彦については、まだ十分に判明していないのですが、これまでに私の知ったことを皆さんに紹介したいと思います。もし、もっとくわしいことをご存じの人があれば教えてほしいと思います。
 
 館潔彦は、嘉永2年(1849年)に桑名藩の武士である館淳平(または淳夫)の子として生まれました。淳平は明治初期の桑名藩で駅逓次司(えきていじし)を勤め、廃藩後の明治5年(1872年)には吉津屋町・入江町・鍛冶町・葭町・紺屋町を管理する戸長を勤めています。一方、潔彦は明治2、3年ごろに上京し、岸俊雄(旧会津藩士)から近代数学を学びました。明治5年には工部省測量司に技師として就職しました。就職が決まると、桑名に帰省して結婚しました。妻は柳本通義(郷土史を訪ねて-桑名史上の人たち18を参照)の姉です。
 
 近代測量は外国人の指導で始まり、測量器械も輸入品でした。彼は明治6年1月に横浜で測量器械を購入し、それ以後、各地の測量に従事しています。その間、彼の職場である工部省測量司は明治7年8月に内務省地理寮量地課に移管され、明治10年1月には内務省地理局測量課となり、明治17年には参謀本部測量局に移され、明治21年5月には陸軍参謀本部陸地測量部となりました。このときに彼は陸地測量部班長心得・陸軍六等技師の辞令を受けています。
 
 近代測量は三角測量ですが、明治24年には彼は撰点官(せんてんかん)となり、一等三角点を選定することを主な仕事としました。明治26年から27年にかけて、彼が選定した一等三角点は、穂高岳・御岳山・乗鞍岳・立山・木曽駒ヶ岳・白馬岳・赤岳などがあります。初めに書きましたように、彼は、測量という仕事を通して日本アルプスの山々を踏破しているのです。道らしい道もない山道を器械を担いで、高い山の頂上に登っているのです。ときには風雨に見舞われたり、野獣に襲われたりしたこともあっただろうと思われます。
 
 彼は、明治38年に退職していますが、大正4年(1915年)に「洋式日本測量野史」を発表しています。晩年は桑名の尾野山に住んでいます。昭和2年(1927年)6月4日に79歳で亡くなりました。
 

                  (桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)