更新日: 2022年4月15日

ここから本文です。

沿革

九華公園

桑名城跡の本丸及び二之丸跡を利用した公園で、約7.20haの広さがある。
明治維新以後荒廃していたが、昭和3年(1928年)松平定信(楽翁)没後百年祭記念のために公園として整備された。園内では4月に桜、5月につつじ、6月には花菖蒲まつりが行われる。
園内には戊辰の役の犠牲者森陳明をたたえる「精忠苦節」碑(明治23年=1890年建)や水谷一楓の歌碑(昭和51年建)や土生暁帝の句碑(昭和59年建)、葛山たけしの句碑(昭和59年建)がある。

沿革

九華公園区画の図

永正10年(1513年)関東より伊藤武左衛門実房が来て、この付近に城館を設けたのが最初である。

天正19年(1591年)に一柳右近が桑名を領し、築城をはじめ、文録4年(1595年)に伊勢神戸城から天守閣を移築した。

その後氏家行広が城主となったが、慶長6年(1601年)に本多忠勝が城主となり10万石を領した。
忠勝は城下の町割(都市計画)をすると共に、城郭の拡張整備を行なった。本丸・新城(城主御殿)・二之丸・三之丸・内朝日丸などを堀にて区画した。

元和2年(1616年)に忠勝の孫である忠刻は徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住んだ。
しかし翌元和3年に本多家は姫路城に移封となり、松平(久松)定勝が11万石の桑名城主となり、吉之丸・外朝日丸などを拡張した。

その後寛永12年(1635年)に松平(久松)定綱が11万3千石の城主となり、宝永7年(1710年)には松平(奥平)忠雅が10万石の城主となった。

さらに文政6年(1823年)に松平(久松)定永が11万3千石の城主となって、幕末を迎えた。
慶応4年=明治元年(1868年)の戊辰の役で桑名藩は新政府軍に敗北した。
明治8年(1875年)に旧桑名城の土地建物は払い下げられた。
石垣の石は四日市港の築港のために使われた。
明治12年には城内の堀を利用して貯木所となった。
明治29年には旧城内の一部に桑名紡績が設立された。
本丸跡付近には昭和3年(1928年)に九華公園が設けられた。
昭和17年には城跡の一部が県指定史跡となった。

⇒桑名藩主一覧はこちら

お問い合わせ

産業振興部 観光課

文化振興係

電話番号:0594-24-1361

ファックス番号:0594-24-1140

こちらのページも読まれています