桑名藩

江戸時代を近世(きんせい)といい、17世紀から明治維新までをいいます。このころの桑名は、東海道(とうかいどう)・美濃街道(みのかいどう・桑名市から多度町を通り、岐阜県へ行く道)・員弁街道(いなべかいどう・桑名からいなべ市を通り岐阜県へ行く道)といった街道が発達した町で、桑名藩の領地は、今の桑名市の大部分と多度町全域、いなべ市の一部と四日市市の一部になります。今の長島町は長島藩(ながしまはん)という藩が置かれました。

近世になると、徳川家康(1542~1616)は、御三家(ごさんけ・水戸・名古屋・和歌山)・親藩(しんぱん・徳川氏の親せきの大名)・譜代(ふだい・関ヶ原の戦いの前から家来になった大名)・外様(とざま・関ヶ原の戦いの後に家来になった大名)のうち、信用できる大名を交通の中心や反乱が起きそうなところの藩主(はんしゅ)にしました。桑名藩は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の前から家来であった本多忠勝(ほんだただかつ・1548~1610)が藩主になりました。
忠勝は、桑名城下の整備を行い、員弁川(町屋川)・大山田川(おおやまだがわ)の流れを変えて外堀(そとぼり)に利用しました。これを「慶長の町割り(けいちょうのまちわり)」といいます。今でも桑名市の中心部には忠勝が行った「慶長の町割り」のなごりを見ることができます。

元和2(1616)年、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の長女で家康の孫の千姫(せんひめ)が、本多忠政(ほんだただまさ・1575~1631)の子、本多忠刻(ほんだただとき)と結こんしました。千姫は、桑名の春日神社(かすがじんじゃ・今の桑名宗社)に東照宮(とうしょうぐう・家康をまつっているところ)を作り、祖父家康の像をおさめました。その後、本多忠政は播磨国姫路藩(はりまのくにひめじはん・今の兵庫県姫路市)に移りました。

次に藩主になったのは、徳川家康の弟の松平定勝(まつだいらさだかつ・1560~1624)でした。その後定勝の二男松平定行(まつだいらさだゆき・ 1587~1668)があとをつぎましたが、定行は伊予国松山藩(いよのくにまつやまはん・今の愛媛県松山市)に移っていきました。その後、松平定行の弟で松平定勝の三男松平定綱(まつだいらさだつな・1592~1651)が、美濃国大垣藩(みののくにおおがきはん・今の岐阜県大垣市)から桑名へと移ってきました。定綱のとき、桑名城と城下町がほぼ完成し、「海道の名城(かいどうのめいじょう)」といわれるようになりました。

定綱のあと、松平定良(まつだいらさだよし・1581~1657)、松平定重(まつだいらさだしげ・1644~1717)と続きました。定重が藩主であったとき、郡奉行(こおりぶぎょう)の野村増右衛門(のむらますうえもん・1646~1710)が、新田の開発、川や道路、橋などの工事、産業の開発など藩の政治に力をつくしました。ところが、宝永7(1710)年、増右衛門をよく思わない人たちが、藩に農民を苦しめたとか藩のお金をだまし取ったなどとうその罪を告げました。定重は増右衛門とその一族を死罪にしてしまいました。この増右衛門の事件が、幕府に知られ、定重は越後国高田藩(えちごのくにたかだはん・今の新潟県上越市)に移されました。ちなみにこの増右衛門の事件は、のちに「野村奸曲録(のむらかんきょくろく)」という本になりました。

松平定重が越後国高田藩へ移ったあと、松平忠雅(まつだいらただまさ・1683~1746)が備後国福山藩(びんごのくにふくやまはん・今の広島県福山市)から桑名へ移ってきました。次に定雅の子松平忠刻(まつだいらただとき・1718~1782)が藩主となりました。
忠刻が藩主だった宝暦3(1753)年に、幕府は薩摩藩(さつまはん・鹿児島藩ともいいます。
今の鹿児島県)に木曽川(きそがわ)・長良川(ながらがわ)・揖斐川(いびがわ)の工事をするよう命令しました。宝暦4(1754)年から宝暦5(1755)年にかけて、薩摩藩はこの3つの川の工事を行いました。
この工事のことを「宝暦治水(ほうれきちすい)」といいます。

その後、松平忠啓(まつだいらただひろ・1746~1786)、松平忠功(まつだいらただかつ・1756~1830)、松平忠和(まつだいらただとも・ 1759~1802)、松平忠翼(まつだいらただすけ・1780~1821)と続きましたが、松平忠堯(まつだいらただたか・1801~1864)は、文政6(1823)年に幕府の命令で桑名から武蔵国忍藩(むさしのくにおしはん・今の埼玉県行田市)に移されました。
松平忠堯が武蔵国忍藩に移ったあと、桑名に移ってきたのが、陸奥国白河藩(むつのくにしらかわはん・今の福島県白河市)の藩主であった松平定永(まつだいらさだなが・1791~1838)です。定永は、「寛政の改革(かんせいのかいかく)」を行った松平定信(まつだいらさだのぶ・1758~1829)の子です。そのため桑名には定信に関するものが多く残っています。

定永の後、松平定和(まつだいらさだかず・1812~1841)、松平定猷(まつだいらさだみち・1834~1859)と続きました。
定猷は26歳で亡くなり、定猷の子松平定教(まつだいらさだのり・1857~1899)が小さかったため、美濃国高須藩(みののくにたかすはん・今の岐阜県海津市)の松平義建(まつだいらよしたつ)の七男松平定敬(まつだいらさだあき・1846~1908)を養子にしました。定敬は、元治元(1864)年京都所司代(きょうとしょしだい・京都を守る仕事をしていました)となり、桑名藩は幕府側につきました。

慶応4(1868)年には幕府は、薩摩藩・長州藩(ちょうしゅうはん・萩藩ともいいます。今の山口県)と戦いましたが、負けてしまいます。この戦いのことを「鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)」といいます。

桑名藩主
名前(生まれた年~亡くなった年) 期間 その他
1 本多忠勝(ほんだただかつ・1548~1610) 1601~1610  
2 本多忠政(ほんだただまさ・1575~1631) 1610~1617  
3 松平定勝(まつだいらさだかつ・1560~1624) 1617~1624  
4 松平定行(まつだいらさだゆき・1587~1668) 1624~1635  
5 松平定綱(まつだいらさだつな・1592~1651) 1635~1651  
6 松平定良(まつだいらさだよし・1632~1657) 1652~1657  
7 松平定重(まつだいらさだしげ・1644~1717) 1657~1710 伊予国松山藩主松平定頼(まつだいらさだより)の三男。定良の養子となる。
8 松平忠雅(まつだいらただまさ・1683~1746) 1710~1746  
9 松平忠刻(まつだいらただとき・1718~1782) 1746~1771  
10 松平忠啓(まつだいらただひろ・1746~1786) 1771~1786  
11 松平忠功(まつだいらただかつ・1756~1830) 1787~1793 紀伊国和歌山(きいのくにわかやま・今の和歌山県)藩主徳川宗将(とくがわむねまさ)の七男。天明3(1783)年忠啓の養子となる。
12 松平忠和(まつだいらただとも・1759~1802) 1793~1802 紀伊国和歌山藩主徳川宗将の九男。寛政5(1793)年兄忠功の養子となる。
13 松平忠翼(まつだいらただすけ・1780~1821) 1802~1821 越後国与板(えちごのくによいた・今の新潟県)藩主井伊直朗(いいなおあき)の三男。寛政6(1794)年養子となる。
14 松平忠堯(まつだいらただたか・1801~1864) 1821~1823  
15 松平定永(まつだいらさだなが・1791~1838) 1823~1838  
16 松平定和(まつだいらさだかず・1812~1841) 1838~1841  
17 松平定猷(まつだいらさだみち・1834~1859) 1841~1859  
18 松平定敬(まつだいらさだのり・1846~1908) 1859~1868 美濃国高須主松平義建の七男。安政6(1859)年定猷の養子となる。

紙本淡彩本多忠勝像
紙本淡彩本多忠勝像

文政年間桑名市街之図
文政年間桑名市街之図

桑名の町をつくった おとの様(さま)

九華公園(きゅうかこうえん)に大きな像(ぞう)があることを知っていますか?
そこで、この人のことを「桑名歴史案内人(れきしあんないにん)の会」の方に聞いてみました。

本多忠勝(ほんだただかつ)の像
本多忠勝(ほんだただかつ)の像

九華公園(桑名白のあと)
九華公園(桑名城のあと)

「桑名歴史案内人の会」の多儀(たぎ)さん

本多忠勝は、徳川家康(とくがわいえやす)の家来(けらい)で、たたかいで一度(いちど)も負(ま)けたことないというふうに伝(つた)えられています。 忠勝は、桑名藩(くわなはん)の最初(さいしょ)の城主(じょうしゅ)となり、慶長6(1601)年には「慶長の町割(まちわ)り」という桑名の町をつくり直す工事(こうじ)をおこないました。
この工事は、桑名の町の中に流れていた川を別の場所にうつしたり、桑名城を中心に町全体(まちぜんたい)を堀(ほり)で取(と)りかこむなど、大がかりな工事でした。
当時、城の近くに同じ仕事をする人たちを集めて住まわせたので、九華公園近くには「紺屋町(こんやまち)」「油町(あぶらまち)」「鍛冶町(かじまち)」「職人町(しょくにんまち)」「魚町(うおまち)」「伝馬町(てんままち)」「寺町(てらまち)」といった町名が今も残っています。
 

長島藩(ながしまはん)

慶長2(1598)年5月、福島正則(ふくしままさのり・1561~1624)の弟である福島正頼(ふくしままさより・?~1633)が長島藩主となりましたが、慶長5(1600)年に正頼は大和国松山藩(やまとのくにまつやまはん・今の奈良県宇陀市)に移りました。
正頼が松山藩に移ったあと、菅沼定仍(すがぬまさだより・1576~1604)が上野国阿保(うえののくにあぼ・今の群馬県)から長島へきました。
その後、菅沼定芳(すがぬまさだよし・1587~1643)があとをつぎ、長島城の修理や城下町の整備を行いました。定芳はその後近江国膳所(おうみのくにぜぜ・今の滋賀県大津市)に移っていきました。

長島藩主を、桑名藩主松平定勝(まつだいらさだかつ)が一時かねていましたが、定勝の五男松平定房(まつだいらさだふさ・1604~1676)、定勝の六男松平定政(まつだいらさだまさ・1610~1672)が藩主になりました。
定房は、長島藩から伊予国今治藩(いよのくにいまばりはん・今の愛媛県今治市)に移っていきました。定政も長島城の修理や新田開発などを行いましたが、長島藩から三河国刈谷藩(今の愛知県刈谷市)に移っていきました。

その後、下野国(しもつけのくに・今の栃木県)から長島へ移った松平良尚(まつだいらよしなお・1623~1696)が藩主となりました。良尚も長島城の修理、新田開発や神社仏閣の再建などを行っています。そして、良尚の子松平忠充(まつだいらただみつ・1652~1729)が後をつぎましたが、1702年病気のため藩主をやめることになりました。

松平忠充のあと長島藩主となったのが、増山正弥(ましやままさみつ・1653~1704)です。正弥は、元禄15(1702)年に常陸国下舘藩(ひたちのくにしもだてはん・今の茨城県下館市)から長島に移りましたが、宝永元(1704)年に亡くなりました。
正弥の後を増山正任(ましやままさとう・1679?~1744)がつぎました。正任は享保7(1722)年に藩の学校として「省耕楼(しょうこうろう)」を開きました。さらに正任は新田の開発や検地(けんち)などを行いました。

その後、増山正武(ましやままさたけ・1705~1746)、増山正贇(ましやままさよし・1726~1776)、増山正賢(ましやままさかた・1754~1819)が続きました。正賢は、雪斎(せっさい)とも名乗り、学問と絵画が好きな藩主でした。花や鳥、自然をモチーフとした絵を多くかいています。
増山正寧(ましやままさやす・1785~1842)、増山正修(ましやままさなお・1819~1869)と続き、明治維新をむかえるまで、増山家が代々長島藩主となりました。

長島藩主
名前(生まれた年~亡くなった年) 期間 その他
1 福島正頼(ふくしままさより・?~1633) 1598~1600  
2 菅沼定仍(すがぬまさだより・1576~1604) 1601~1604  
3 菅沼定芳(すがぬまさだよし・1587~1643) 1604~1621 菅沼定盈(1542~1604)の六男。
4 松平定勝(まつだいらさだかつ・1560~1624) 1621~1624  
5 松平定実(まつだいらさだざね・不明) 1624~1625 定勝の子。病弱のため定房に譲る。
6 松平定房(まつだいらさだふさ・1604~1676) 1625~1635 定勝の五男。
7 松平定政(まつだいらさだまさ・1610~1672) 1635~1649 定勝の六男。
8 松平良尚(まつだいらよしなお・1623~1696) 1649~1685  
9 松平忠充(まつだいらただみつ・1652~1729) 1685~1702 忠充、病により領地をうばわれる。
10 増山正弥(ましやままさみつ・1653~1704) 1702~1704  
11 増山正任(ましやままさとう・1679?~1744) 1704~1742  
12 増山正武(ましやままさたけ・1705~1746) 1742~1746  
13 増山正贇(ましやままさよし・1726~1776) 1746~1776 長門国清末(ながとのくにきよすえ・今の山口県下関市)藩主清毛利元平(もうりもとひら)の九男。延享元(1744)年正武の養子となる。
14 増山正賢(ましやままさかた・1754~1819) 1776~1801  
15 増山正寧(ましやままさやす・1785~1842) 1801~1842  
16 増山正修(ましやままさなお・1819~1869) 1842~1869 出羽国鶴岡(でわのくにつるおか・今の山形県鶴岡市)藩主酒井忠器(さかいただかた)の弟で、正寧の養子となる。
17 増山正同(ましやままさあつ・1843~1887) 1869~1871 大和国櫛羅(やまとのくにくじら・今の奈良県かつらぎ市)藩主永井直方(ながいなおかた)の子で、正修の養子となる。明治維新後長島藩知事となる。