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「どうする家康」ゆかりの人・桑名を築いた本多忠勝

2023年1月より、大河ドラマ「どうする家康」が始まります。その徳川家康に幼少より仕え、徳川四天王の一人として天下統一を支えたのが、桑名藩の初代藩主・本多忠勝です。生涯50回を超える戦で一度も傷を負わなかった武闘派として歴史ファンの人気が高い戦国武将ですが、実は桑名を港町・城下町・宿場町の三機能を併せ持つ町に作り替えた、有能な政治家でもあったのです。

目次

 

徳川四天王の猛者が桑名の初代藩主に

関ヶ原の戦い(1600年)のあと、徳川家康から桑名10万石を与えられた本多忠勝。
伊勢国の港町だった桑名が、桑名藩となったのはこの時からです。では、本多忠勝とはどのような人物だったのでしょうか。

本多忠勝画像

本多忠勝画像(立坂神社蔵)

 本多家は松平家の代々の家臣でした。現・愛知県岡崎市で生まれた忠勝は、幼い頃から6歳年上の家康に仕え、13歳で初陣を飾ります。以降、武田信玄との三方ヶ原の戦い、豊臣秀吉との小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなど大きな戦(いくさ)でさまざまな武功をたて、家康の天下取りへの道を支えました。勇猛なだけではなく、冷静さと大胆さを兼ね備え、戦国最強と称された忠勝。家康からは「まことに我が家の良将なり」と信頼をおかれ、信長や秀吉もその武勇を称えています。敵の武田勢からは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八(本多平八郎)」と言われました。唐の頭とは、家康がかぶっていた、中国のヤクの毛で飾った高価な兜(かぶと)のこと。平八郎は、忠勝の通称です。多くの功績から徳川四天王の一人として数えられました。

鹿角の黒兜に、数珠姿、名槍「蜻蛉切」が代名詞

刃先に止まったトンボが真っ二つに切れたと言われたほどの切れ味から「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれた6mもの大槍を振り回し、神の使いともいわれる鹿の角を模した兜をかぶり、防御より攻撃を重視した軽い甲胄を身につけ、ときには単騎で敵陣に切り込んだ忠勝。一方で、斜めにかけた大数珠は討ちとった兵を弔うためだったと言われていますので、戦うことは本意ではなかったのかもしれません。

本多忠勝銅像

九華公園として整備された桑名城址を見守る忠勝像。天下三名槍と言われた愛槍の蜻蛉切を携えています。

 忠勝と家康の逸話として、有名な「神君伊賀越え」があります。本能寺の変が起きたとき、家康はわずか34人の供(とも)を連れ、堺(現・大阪府堺市)を見物中でした。信長と同盟関係にあり、しかも丸腰状態の家康は、信長亡きあとの混乱に乗じた明智光秀軍や褒美目当ての農民らから狙われる危機がありました。家康は、自刃か、それとも玉砕覚悟の弔い合戦かという生涯最大の危機に見舞われましたが、三河(現・愛知県岡崎市)へ帰るよう忠勝らが家康を説得しました。途中、雑兵を倒したり、地元の勢力を味方につけたりしながら、伊賀山中の道なき道を越えて伊勢から海を渡り、たった2日で三河まで帰り着かせました。

桑名の町の基礎作りと社寺の復興

 関ヶ原の戦い後、桑名藩主となった忠勝は、4年がかりの大規模な区画整理「慶長の町割(けいちょうのまちわり)」を行います。それまで水運で栄えていたものの、幾筋もの川に挟まれ水害に悩まされた土地を埋め立て、川の流れを大きく変えて外郭堀に利用しました。4層の天守閣や多くの櫓(やぐら)を備えた城を建て、武家と町人、さらに業種ごとに城下町の居住区を分割。港町・城下町・東海道の宿場町として、桑名の町の基盤を作りました。
 この時の区画が現在の市街地の原型になっており、いまも町名に鍛冶町、魚町などの名残が見られます。また、桑名の鋳物産業は、忠勝が鉄砲の製造を命じて鍛冶屋を集めたことに始まったと言われています。

古地図と現在の桑名市の施設

勢州桑名城中の絵図(1644年当時のもの)からは、現在の市街地と変わらない部分が見られます。
※●は現在のスポット

寺社の復興にも力を注ぎました。
織田信長による一向一揆攻撃の際に焼き払われた多度神社を再建。桑名城北面の鎮守として、また天下・国家の平安を祈る社として復興させました。年中の恒例祭儀も漸次復興され ”お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り”と謡われる程の復興を遂げました。
そのほか、城下町の南北の入り口2カ所に寺を移し、防御の役割を持たせました。
晩年は病気がちになり、息子の忠政(ただまさ)に代を譲った翌年、63歳で亡くなりました。

孫同士が結婚!七里の渡しと千姫

徳川家康の孫にあたり「千姫」は、大坂夏の陣後、忠勝の孫・忠刻と桑名で恋に落ち結婚したと言われています。忠刻の舟をこぐ姿を見て一目ぼれしたそうで、その場所は現在の七里の渡し場跡あたりと言われています。桑名に嫁いだ後、千姫は桑名宗社に東照宮を勧請し、家康の木造座像をまつりました。

桑名で買える!本多忠勝グッズ

桑名市内の忠勝グッズを紹介します。

忠勝Tシャツ

住吉浦休憩施設
【忠勝Tシャツ】
本多忠勝の名前の由来「ただ勝つ」の文字が入ったTシャツです。兜と家紋もあしらわれています。

本多忠勝年表

1548年(1歳)
三河国に本多忠高の長男として誕生

≪家康の家臣として、武功を重ねる≫

1563年(16歳)
三河の一向一揆で、一族が敵方につく中、浄土宗へ改宗し家康側に残り鎮圧
1570年(23歳)
姉川の戦い。単騎で駆け込んで朝倉軍を崩し、信長・家康連合軍を勝利に導く
1572年(25歳)
一言坂の戦い。撤退する家康軍の最後尾で追手を防ぎ、敵の武田方から「家康に過ぎたるもの」と賞賛される
1582年(35歳)
本能寺の変の直後、家康の窮地に伊賀越えを進言して三河国へ無事に生還
1584年(37歳)小牧・長久手の戦いで、家康軍を背後から襲う豊臣秀吉軍の前にわずかな手勢で躍り出て気勢をそぎ、秀吉を感嘆させる

≪秀吉の天下で、家康に忠義を尽くす≫

1588年(41歳)
従五位下・中務大輔に任官
1590年(43歳)
秀吉の小田原攻めに家康軍として参加、関東の48もの城を陥落。上総大多喜(現・千葉県大多喜町)10万石の城主となり、城と城下町を整備
1600年(53歳)
関ヶ原の戦いに軍の目付役として参戦。全軍の指揮だけでなく自らも敵へ突入

≪桑名で過ごす晩年≫

1601年(54歳)
関ヶ原の功績で伊勢桑名10万石に国替え。大多喜城は次男に分与
1605年(58歳)
多度神社(現在の多度大社)を再建
1609年(62歳)
家督を嫡男忠政に譲って隠居
1610年(63歳)
桑名城で死去

特集 くわなの過ごしかた。

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掲載日:2023年1月10日

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