更新日: 2022年2月1日

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戦国時代

戦国時代とは、16世紀のおよそ100年間をさします。
浄土真宗(じょうどしんしゅう・一向宗ともいいます)を開いた親鸞(しんらん)の子孫の蓮如(れんにょ・1415~1499)は、東海地方で浄土真宗を広める活動をしました。
その後、蓮如の子、蓮淳(れんじゅん)が、文亀元(1501)年に長島の願証寺(がんしょうじ)を作りました。この願証寺は東海地方の浄土真宗のリーダー的存在となりました。
この浄土真宗の活動をよく思わなかったのが、織田信長(おだのぶなが・1534~1582)です。

元亀元(1570)年、大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)の顕如(けんにょ・1543~1592)は、全国の地域の豪族(ごうぞく)や僧、寺や檀家(だんか)に向けて、織田信長との戦いに参加するようよびかけました。長島の願証寺はそのよびかけにこたえて、願証寺に地域の豪族や僧、百姓(ひょくしょう)たちがこもりました。信長は多くの軍勢(ぐんぜい)をつれて、元亀2(1571)年、天正元(1573)年、天正2(1574)年の3度にわたって願証寺を攻め、天正2(1574)年9月、ついに願証寺は信長に負けました。この戦いのことを「長島の一向一揆(ながしまのいっこういっき)」といいます。

「長島の一向一揆」に勝った信長は、天正10(1582)年6月、本能寺(ほんのうじ)の変で家来(けらい)の明智光秀(あけちみつひで・1537~1582)に倒されてしまいます。信長の家来であった豊臣秀吉(とよとみひでよし・1536~1598)は明智光秀を打ち倒し、信長の後継者と領地(りょうち)についての話し合いをします。瀧川一益(たきがわかずます・1525~1586)が以前から桑名や多度、長島を支配していましたが、そのまま支配することになりました。
その話し合いのあと、天正11(1583)年には信長の二男の織田信雄(おだのぶかつ・1558~1630)・秀吉と信長の三男の織田信孝(おだのぶたか・1558~1583)・柴田勝家(しばたかついえ・1522~1583)の対立が深くなりました。
信孝・勝家軍に加わった一益は、信雄・秀吉軍と戦いましたが、信孝と勝家、一益は信雄と秀吉に破れてしまいます。この戦いのことを「賎ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」といいます。

「賎ヶ岳の戦い」のあと、織田信雄は、尾張国(おわりのくに・今の愛知県の北西部)と伊勢国(いせのくに・今の三重県北中部と南部)・伊賀国(いがのくに・三重県の伊賀地方)・志摩国(しまのくに・三重県の志摩地方)を支配するようになりますが、天下統一を進める豊臣秀吉と信雄との関係は悪くなっていきました。

天正12(1584)年、信雄は徳川家康(とくがわいえやす1542~1616)と組んで、秀吉と戦います。この戦いのことを「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」といいます。3月に家康は秀吉軍を破りますが、11月に秀吉と信雄は仲直りをしてしまいます。この秀吉と信雄の仲直りの結果、信雄はそれまで支配していた志摩国と伊賀国を秀吉にゆずり、尾張国と伊勢国の一部のみを支配するだけとなってしまいました。

天正18(1590)年、豊臣秀吉は、全国統一をほぼ終えました。織田信雄や徳川家康の領地を変えてしまいます。家康は今の愛知県と静岡県の一部を支配していましたが、関東へ領地を変えられてしまいました。家康が支配していた領地に変わるよう言われた信雄は、断りました。このことが秀吉の怒りをかい、信雄は領地をへらされ、三重県から遠くはなれた下野国烏山(しもつけのくにからすやま・今の栃木県那須郡)に移されました。
その後、桑名・多度・長島は秀吉が直接支配するようになりました。

桑名・多度の領主

名前(生まれた年~亡くなった年) 期間 その他
1 瀧川一益(たきがわまさます・1525~1586) 1575~1583  
2 服部一正(はっとりかずまさ)   松阪(今の三重県松阪市)に移る。
3 一柳可遊(ひとつやなぎかゆう)    
4 氏家行広(うじいえゆきひろ・1546~1615) ?~1600  

長島の領主

名前(生まれた年~亡くなった年) 期間
1 瀧川一益(たきがわまさます・1525~1586) 1575~1583
2 織田信雄(おだのぶかつ・1558~1630) 1583~1590
3 豊臣秀次(とよとみひでつぐ・1586~1595) 1590~1592
4 天野景俊(あまのかげとし) 1592~1594
4 原 胤房(はらたねふさ) 1594~?

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