更新日: 2022年2月1日

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長島一向一揆

1570(元亀元)年、長島願証寺(ながしまがんしょうじ)を中心とした一向宗派(浄土真宗門徒(じょうどしんしゅうもんと))が、織田信長の拠点であった小木

対立の背景には、織田信長が永禄11(1568)年に上洛をした際、本願寺に「矢銭(やせん)」といわれる軍用金5,000貫(米1万石相当=約1,500,000kg)を要求しました。

当初、本願寺は、これを支払って信長との関係を穏便にすまそうとしましたが、その後も信長が本願寺に圧力をかけ続けてきたことで、本願寺側も三好三人衆や浅井・朝倉氏などと連携を図り、反信長勢力の一翼を担うようになりました。

本願寺は、全国各地の一向宗徒に檄文を送り、これに呼応した桑名周辺の一向宗徒たちは長島願証寺に続々と集まり、願証寺証意を盟主として一揆を起こしました。

信長の攻撃は、1571年から1574年まで3回にわたり、当初、織田軍を苦しめましたが、信長包囲網(のぶながほういもう)が崩れたこともあり、一向宗側の戦況が厳しいものになりました。結果、一揆勢の死者は2万人にのぼったといわれており、日本史上に残る凄惨(せいさん)な出来事でした。

この一揆は、長島地区に限った戦いではありませんでした。大鳥居(おおどりい)や柳ケ島といった揖斐川の西岸の地域でも戦いが行われました。

長島一向一揆殉教之碑

長島一向一揆殉教之碑(願証寺)

 

桑名市プロデュース!Youtubeで戦国講談「長島軍記〜伊勢長島一向一揆450年~」を配信しています

「長島軍記〜伊勢長島一向一揆450年~」旭堂南龍feat.Mummy-D(外部サイトへリンク)

2020年で一揆方が織田信長の城を攻撃してから450年。その一連の歴史をもっと知っていただくため、関西を代表する講談師の旭堂南龍(きょくどうなんりゅう)さんにお話をつくっていただきました。

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