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桑名の歴史をたずねて

広く知られていませんが、桑名には、江戸時代の始まりと終わりに、誰もが知る日本史上で重要な役割を担った歴史があります。

桑名の礎を築いた初代藩主・本多忠勝から、幕末の動乱を戦い抜いた18代藩主・松平定敬(さだあき)まで、徳川家の重臣として江戸幕府を支え続けた桑名藩の歴史とまちづくりについて、桑名市ブランド推進課の石神教親さん、桑名市博物館館長の杉本竜さん、桑名の歴史・文化の重要な舞台である春日神社、多度大社、鎮国守国神社の関係者の方々に伺いました。

歴史や背景を知れば、桑名のまちを違った視点で眺めることができます。戦国、江戸、幕末を生きた桑名藩主やまちの人々に想いを馳せながら名所を巡れば、その土地を歩く旅の楽しみをより深く感じることができるはずです。

桑名宿の繁栄

桑名には、東海道五十三次の42番目の宿場が置かれ、41番目の宮宿(現在の名古屋市熱田区)と東海道唯一の海路である「七里の渡し」で結ばれていました。参勤交代制度が確立した1635(寛永12)年頃には、海路、陸路の交通の要衝であった桑名宿は、旅籠数で東海道第2位、脇本陣数で第1位の規模を誇る、活気あふれる城下町・宿場町でした。

これより伊勢路に入ることから、現在の七里の渡跡には「伊勢国一の鳥居」が置かれています。近代以降、鳥居は20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮ごとに、内宮入口にある宇治橋の鳥居を移して建て替えられています。


七里の渡跡にある伊勢国一の鳥居。その先には海上の名城と言われた桑名城を象徴する蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が復元されています


大塚本陣跡にある船津屋。老舗料亭旅館として知られ、泉鏡花の小説『歌行燈』の舞台にもなっています。現在は結婚式場、レストラン「ザ フナツヤ」として営業しています

初代桑名藩主となった戦国最強武将・本多忠勝

江戸と京都を結ぶ東海道は、1600(慶長5)年に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康がその翌年に着手、整備されました。同年、1601年に初代桑名藩主となったのが本多忠勝です。幼い頃から6歳年上の家康に仕え、家康が最も厳しかった時代からその天下取りへの道を支えた忠勝は、50回を超える戦で一度も傷を負わなかったと伝えられ、戦国最強武将と称されています。「徳川四天王」の一人として名を馳せた忠勝が桑名へ配置されたのは、家康にとって桑名がとくに重要な拠点であったからに他なりません。


桑名市指定文化財『本多忠勝像』(立坂神社蔵)写真提供:桑名市博物館 ※画像複製禁止

「徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開くのは1603年。大坂冬の陣・夏の陣で豊臣氏に勝利し、家康が名実ともに天下統一を果たしたのは1615年のことです。本多忠勝が桑名藩主となった頃は、大坂城に豊臣秀頼がいたことから、家康は西への備えとして忠勝を桑名に配置しました。また、桑名は東西の陸のルート、南北に走る川のルート、南の海上ルートもある交通の結節点で、流通の拠点として室町時代から商業が発達していました。西の豊臣氏に対抗するための軍事的要素と、交通の要衝である商業的要素を加味した上で、桑名に城下町を築くことが幕府にとって重要だったのです」(桑名市ブランド推進課・石神教親さん)


歌川広重『保永堂版東海道五十三次 桑名』写真提供:桑名市博物館 ※画像複製禁止

本多忠勝のまちづくり

桑名藩主となった忠勝は、すぐに桑名城の築城と城下町の整備「慶長の町割(まちわり)」に着手しました。桑名城は4層の天守閣と51の櫓を備えた名城で、海に向かって開いたその姿から「扇城」と呼ばれました。忠勝は、城郭と居住区を堀で区切り、まちの中に東海道を通し、湊町、城下町、東海道の宿場町として桑名のまちの基盤を作りました。当時の区画や地名は今も桑名のまちに残っています。

「西から流れる町屋川は、現在は途中で南に川筋が曲がっていますが、元は東にある市街地に向かっており、たびたび水害を起こしました。そこで忠勝は洪水対策のため川の流れを変え、城の防御に利用しました。このほか、新田開発や寺社の復興にも力を注ぎ、多度大社を再建したことでも知られています」(石神さん)

桑名城の天守閣は元禄時代の大火で焼失し、再建されませんでした。現在、城の跡地には九華公園が整備され、園内の本丸跡には、第5代桑名藩主の松平定綱、寛政の改革で知られる松平定信を祀る鎮国守国神社があります。現存する遺構として、北大手橋付近の堀川沿いに当時の石垣を見ることができます。


九華公園の向かいにある桑名城三の丸跡に造られた柿安コミュニティパークには本多忠勝の銅像が建てられています


桑名城跡地に整備された九華公園


堀川沿いに残る桑名城の当時の石垣

「本多忠勝が1610年に亡くなり、2代藩主となった息子の忠政は、家康と2代将軍秀忠に仕え、大坂の陣にも出陣しています。冬の陣の後には、その後の夏の陣での勝敗を分けた大坂城のお堀の埋め立てを担当する普請奉行として中心的な役割を担いました。大坂の陣で奪還された秀忠の娘で、豊臣秀頼の正室だった千姫が、桑名で忠政の息子の本多忠刻(ただとき)と出会い、結婚したのはその翌年、1616(元和2)年のことです。桑名市内にある春日神社には、千姫が勧請した祖父・家康を祀る東照宮があり、千姫が奉納した家康坐像が納められています」(石神さん)

歴代藩主の崇敬を集め、町衆に親しまれた春日神社

桑名宗社(俗称・春日神社)は桑名神社と中臣神社からなる桑名の総鎮守で、いずれも平安時代の延喜式神名帳に記載された古い神社です。鎌倉時代に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀したことから、「春日さん」の名で親しまれています。

武将からの崇敬も篤く、徳川家康の前には、織田信長からも神領が寄進され、本多忠勝は木造の鳥居を寄贈しています。また、古くから町衆にも親しまれ、第二次世界大戦の戦災で全焼した際には、氏子らが自らの生活より優先して再建に取り組み、見事に再興しています。


向かって右が天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀る桑名神社、左が天日別命(あめのひわけのみこと)を祀る中臣神社です。天津彦根命は繁栄の神様、天日別命は厄除けの神様として仰がれています


青銅の鳥居をくぐった先にある楼門。第二次世界大戦時に焼失しましたが、1995(平成7)年に半世紀ぶりに再建されました

春日神社の見どころ

春日神社は千姫が家康を祀った東照宮があるほか、国の重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産に登録されている石取祭が行われるお社として知られています。また、室町時代に活躍した桑名出身の刀匠・村正が制作した太刀が奉納されており、刀剣ファンの方にもぜひ巡っていただきたい場所。青銅の鳥居も古くから鋳物のまちとして知られる桑名の名物です。一説によると、桑名の鋳物づくりは、本多忠勝が鉄砲の製造のために鋳物師を連れてきたことが始まりとも言われています。(桑名市博物館館長・杉本竜さん)

神社境内にある家康を祀る東照宮。千姫と本多忠刻は七里の渡しで出会ったと伝えられており、姫路に移るまでの約1年間、桑名で幸せな新婚生活を送りました。そのことから恋愛成就祈願に訪れる人も多いのだそう

青銅鳥居は7代桑名藩主・松平定重が寄進、鋳物師の辻内種次に命じて建立させたもの。伊勢湾台風、第二次世界大戦などで損傷した際には、現在まで桑名で鋳物業を続ける子孫の辻内家による修復が行われ、350年間変わらず立ち続けています

町衆も藩士も身分を取っ払って楽しんだ石取祭

石取祭は江戸時代初期に始まったと言われており、400年続く桑名を代表する祭りです。8月の第1日曜日を本楽、前日を試楽として行われ、試楽日の午前0時に宮司の神楽太鼓を合図に、各町内の祭車が一斉に鉦と太鼓を叩き出します。この叩き出しの瞬間の光景はまさに勇壮無比なもので、この日を待ち焦がれ、この瞬間にすべてを爆発させる人々の熱量が轟音となって響き渡ります。石取祭は「日本一やかましい祭り」とも言われ、期間中は桑名市街が興奮に包まれ、祭り一色となります。

「神社の祭りは大祭、中祭、小祭に分かれているのですが、石取祭は実は大祭に次ぐ中祭にあたります。大祭には桑名神社の比与利(ひより)祭や中臣神社の御車(みくるま)祭などがあり、石取祭は比与利祭の一神事として、町屋川で拾った石を奉納する行事が発展したものです。石を運ぶ小さな車に夜は提灯を灯し、鉦や太鼓で演出をしたのが現在の石取祭車の始まりでした。大祭は藩主が仕切る祭りでしたが、大祭を支える石取祭は民衆が一体となる祭りで、大人も子どもも、身分も取っ払って楽しむことができました。時代に合わせて形は少しずつ変わっていますが、祭りの本質は変わっていません。町内の人にとっては1年の集大成となる大切な祭りです」(春日神社宮司・不破義人さん)


桑名が誇る春日神社の石取祭。豪華絢爛な祭車が約40台、一堂に会し鐘と太鼓を打ち鳴らします。単一の神社の一神事としては異例の規模で、江戸時代から続く桑名の町衆の力強さが伺えます

宝刀「村正」・宝刀「正重」

桑名は、最も有名な刀工名のひとつである村正が拠点を置いた場所であり、市内南西部に位置する走井山の麓に村正の屋敷跡があったと言われています。室町時代から江戸時代初期まで、何代にも渡って桑名で作刀していたことから、桑名には貴重な村正の刀が多く残されています。本多忠勝が愛用した天下三名槍の一つ「蜻蛉切り」も、村正系統の刀匠である正真による作です。春日神社には、村正の代表作とも言える傑作が所蔵されています。

「当神社では村正と、村正を祖とする「千子派」の刀匠である正重の刀を2口ずつ所蔵しています。村正は第二次世界大戦下で疎開させるにあたり、空気に触れないよう漆が塗られたため、どんな刀か分かっていなかったのですが、令和元年の記念事業の一環で研ぎ上げ、地刃が鮮明になりました。村正自身が神社に奉納するためにとても丁寧に作られたもので、波紋も華やか。歴史的価値はもちろん、美術工芸品としても価値が高い傑作であると評価をいただきました」(不破さん)


春日神社に奉納された村正の刀

伊勢神宮との関わり

春日神社の境内には、伊勢神宮から直接「御分霊」を受けた「皇大神宮御分霊社」があり、伊勢神宮と同じ天照大御神が祀られています。

「伊勢神宮と桑名は深いつながりがあります。現在も一の鳥居を譲り受けていますが、古くから式年遷宮に使用される材木の貯蔵や流通を桑名で管理していた歴史があります。近年の研究では、伊勢神宮神楽殿の初代館長が桑名の人物であったことも分かっています。中臣神社の御車祭は700年の歴史があり、奏楽のレベルが高かったことから、当神社の氏子が選ばれたようです」(不破さん)


境内の一角に東照宮と並んで建つ皇大神宮御分霊社


境内を案内していただいた春日神社宮司の不破義人さん

桑名宗社(春日神社)

住所

三重県桑名市本町46

その他

開館時間・休館日・料金等の最新情報については公式ウェブサイトでご確認ください。

施設紹介

春日神社

公式サイト

桑名宗社(春日神社)(外部サイトへリンク)(別ウィンドウで開きます)

伊勢神宮、本多忠勝との関わりが深い多度大社

伊勢神宮とのつながりが深く、「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り」とうたわれたのが多度山の麓に鎮座する多度大社です。本宮には伊勢神宮の主祭神である天照大御神の第三皇子である天津彦根命(あまつひこねのみこと)、別宮の一目連神社にはその御子神の天目一箇命(あめのまひとつのみこと)が御祭神として祀られ、北伊勢大神宮とも言われています。創建は5世紀後半と古く、伊勢国内でもっとも神階の高い神社であり、全国有数の神社として隆盛を極めました。


向かって左が天津彦根命を祀る本宮 多度神社、右が天目一箇命を祀る別宮一目連神社です


この門を境に両宮本殿の神域に入るという於葺門。独特の神秘的な雰囲気が漂います


境内は荘厳な空気に包まれています

多度大社の見どころ

多度大社は本多忠勝との関わりが深いお社です。多度の地は尾張国・美濃国との国境にあり、木曽三川の河口部に位置したことから、古代には交通の要衝として発展しました。奈良時代に神宮寺が建立され、神仏習合の中心でもありました。長島一向一揆の時に一揆方についたことから、1571年織田信長の兵火によって灰燼に帰してしまいました。そうした中で1601年、桑名藩主になった本多忠勝によって復興を成し遂げました。忠勝は、信長の時代とは違う、新しい時代を象徴的に示すために、人々の崇敬を集めていた多度大社の復興に尽力しました。別宮の主祭神である天目一箇命は祭祀の道具を作った作金者(かなだくみ)で、刀鍛冶の神とされていたことも、鋳物産業に力を入れていた忠勝の篤い崇敬につながったのかもしれません。(杉本さん)

本多忠勝・忠政による神社、神事の復興

多度大社は1571年、織田信長の兵火にかかり、社殿をはじめ、神宮寺などすべての建物と御神宝が焼き尽くされました。しかし、本多忠勝の莫大な寄進により1605(慶長10)年に社殿を再建。その後、別宮、摂社、末社も再建されました。1612年には、2代藩主忠政により多度祭・上げ馬神事をはじめとした祭事も復興を遂げます。御厨(神饌を供える地区)が定められ、武家から御厨を中心とした民衆による祭事となって今日に至っています。

「神社の御神宝には、本多忠勝により多度大社が再興されたときに納められた棟札や、体調がすぐれなかった忠勝の息災長寿を願い1608年に奉納された絵馬のほか、忠勝の生前に描かれた衣冠束帯姿の画像などがあります。また、初代村正の名跡を引き継いだ正重による短刀が奉納されています。「多度山権現」の銘があり、鍛冶の神である天目一箇命を祀る多度大社への崇敬の念が読み取れます」(多度大社広報・増田さん)


伊勢参宮の折には多度大社へ参拝に訪れる習わしが現在でも残っており、全国各地から篤い信仰を集めています


多度山の深い緑とせせらぎに包まれた参道

多度祭・上げ馬神事

多度大社の例祭は、5月4日、5日の両日行われます。その花形として知られるのが、上げ馬神事です。武者姿の少年騎手が約2メートルの絶壁を人馬一体となって駆け上がる勇壮な神事で、古くから農作の時期や豊凶が占われました。近年は馬の上がり具合により景気の好不況なども占われています。また、勇壮な神事・祭馬にあやかり、商売繁盛・社運隆昌・学力向上等を願う人々も多くいます。

「神事は御厨の7地区により、神児1名・騎手6名が選定されます。6地区からは祭馬18頭が準備され、祭事が奉納されます。上げ馬神事は躍動的な祭りですが、その反面危険が伴うことから、昔ながらの精進潔斎が行われ、怪我のないように努めています。4月1日の神占いにより騎手と定められた者は、家族共々別火の生活に入り、心身を清め、乗馬の練習をし、祭の一週間前には、尚一層清浄なる生活に入り大祭に奉仕します」(増田さん)

このほか、多度大社では毎年11月23日の新嘗祭に合わせ、疾走する馬上から的に鏑矢を射る多度流鏑馬祭が行われるほか、8月11日、12日には夕闇に映える幾千灯もの提灯が幻想的なちょうちん祭りも開催され、多くの人でにぎわいます。


華麗な武者姿の少年騎手が人馬一体となって絶壁を駆け上がる上げ馬神事


古式にのっとり行われる多度大社の流鏑馬祭

白馬(しろうま)伝説

多度大社には白馬が幸せを運んでくるという「白馬伝説」があり、一年の幸せを願う参拝者が多く訪れます。多度山は昔から神が在わします山と信じられており、人々は日々の平穏や家族の幸せを祈り続けてきました。その願いを神に届ける使者の役割を果たすのが、多度大社に1500年前から棲むといわれる白馬です。境内には白馬「錦山号」が神馬としてご奉仕しており、参拝者を迎えてくれます。

「かつて、多度山の小高い丘の上には、遠くに広がる街並みを見はるかせ、人々の折節の喜怒哀楽を静かに見つめている白馬の姿がとらえられたと聞きます。天翔る馬には翼を与えたように、その姿を変えて神の懐へと走り去ると、人々の幸せや出会い、喜びを乗せて、再びこの地へ舞降りてくると語り伝えられています」(増田さん)

古来より神は馬に乗って降臨するといわれるように、神と馬との関係は深く、馬の行動を神意のあらわれと判断するところから、多度大社でも上げ馬神事や流鏑馬神事が行われています。


古来から山全体が信仰の対象だった多度山。多度大社の大鳥居は遠くからでもよく見えます

多度大社

住所

三重県桑名市多度町多度1681

受付時間

8時30分~17時00分

その他

開館時間・休館日・料金等の最新情報については公式ウェブサイトでご確認ください。

施設紹介

多度大社

公式サイト

多度大社(外部サイトへリンク)(別ウィンドウで開きます)

鎮国守国神社と桑名藩主・松平家の歴史

鎮国守国神社は現在の九華公園内、桑名城本丸跡地にある神社です。江戸幕府老中を務め、寛政の改革で知られる白河(福島県白河市)藩主・松平定信が1784(天明4)年、白河城内に第5代桑名藩主の松平定綱を祖神(おやがみ)として祀ったのがはじまりで、1823(文政6)年の移封(国替)に伴い、松平家が白河から桑名へ戻った際に、神社も桑名城本丸に移りました。その後、1834(天保5)年に定信もあわせて祀られるようになりました。「鎮国」は定綱、「守国」は定信のことで、それぞれ「鎮国さん」「守国さん」と親しみを込めて呼ばれ、古くから崇敬を集めています。


拝殿は大正8年に再建されました


境内にある桑名城天守台跡


神社は桑名市民の憩いの場である九華公園内にあります

鎮国守国神社の見どころ

鎮国守国神社は、桑名の歴史と松平家について知る上で欠かせない場所です。初代桑名藩主は本多忠勝ですが、本多家は2代で国替となったため、一般的に桑名藩主というと松平家のイメージが強いと思います。松平家には様々な家があり、5代藩主の定綱は松平越中守家(えっちゅうのかみけ)の初代ですが、8代藩主からは松平下総守家(しもうさのかみけ)が藩主を務めました。時を経て、15代藩主の定永のときに越中守家が桑名に戻りますが、そのきっかけを作ったのが定永の父である定信です。また、幕末の桑名藩の重要な舞台であり、戊辰戦争に際し、藩の行く末を決めるおみくじがこの場所で行われました。境内には桑名藩士犠牲者の忠魂碑も建てられています。幕末の桑名の歴史をたどる旅を希望する方は、九華公園と合わせてぜひ巡ってみてください。(杉本さん)

鎮国さんと守国さん

鎮国守国神社に祀られている松平定綱(鎮国)と松平定信(守国)は、それぞれが大きな功績を残した人物として知られています。徳川家康の異父弟で、第3代桑名藩主・松平定勝の息子である定綱は、桑名の文武産業の振興に尽くしたことから藩祖と言われています。桑名城が「海上の名城」と呼ばれようになったのも定綱の時代からでした。一方、定信は白河藩主として天明の飢饉を乗り切った名君であり、将軍の補佐役として、祖父である8代将軍徳川吉宗の行った享保の改革を手本に、寛政の改革を成し遂げました。


松平定綱、松平定信をそれぞれ鎮国大明神、守国大明神として祀っています

「定綱は春日神社の石取祭を興したほか、社寺の建立、鋳物や萬古焼の開発、治水工事、新田開発などを積極的に行い、藩は非常に活気づきました。桑名唯一の湊町である赤須賀も定綱によって整備されています。定綱は藩領内全体を見渡し、漁師、農民、町衆にかかわらず領民の生活がよくなるための手法をとり、人々の心をつかみました。当時は3代将軍の家光の時代に入る頃で、反乱も減り、世の中も落ち着いてきていました。そんな時代を背景に、人々の楽しみや暮らしの豊かさが重視され、それが藩の豊かさにもつながっていったのだと思います」(鎮国守国神社宮司・嵯峨井和風さん)

その後、第7代藩主定重の時代に騒動が起こり、松平越中守家は越後の高田へ移封させられます。さらにその後白河へ移封し、松平定信の意向により桑名に戻るまで、113年の月日が流れました。

「松平越中守家が桑名に戻るとき、白河藩の領地だった越後の柏崎を持って桑名に入りました。そのときには家督を息子に譲っていたため、定信は桑名藩主にはなっていません。しかし、石高を増やして桑名に戻ることは、先代の失点を消し、自身の力を示すという意味で、定信にとってとても重要なことでした。定信は徳川御三卿の一つである田安家の出身で、将軍の世継ぎにと期待されたものの、田沼意次の陰謀により松平家に養子に出された背景があります。将軍になる資格は失いましたが、それでも置かれた立場で上り詰めようという気概はすさまじく、非常に努力の人でした」(嵯峨井さん)

幕末の桑名藩と第18代桑名藩主・松平定敬

定信・定永のいた文政の時代の後、天保の改革を経て、江戸幕府は徐々に衰退していきます。18世紀後半の産業革命による欧米諸国の近代化を背景としながら、時代は幕末・明治維新に向かいます。

「定信の時代には、ロシアに漂着した伊勢の船頭・大黒屋光太夫(こうだゆう)が、アダム・ラクスマンとともにロシア船で帰港した出来事などもあり、定信は海防警備の重要性を説きました。日本の国を守らなければ藩など意味がないということが、国の政治を行っていた定信には分かっていました。時代は11代将軍家斉の頃。14代家茂、15代慶喜の時代は幕末の動乱期ですから、それまであと2代という時代です」(嵯峨井さん)

徳川家との縁が深く、代々の藩主が幕府の重臣として仕えてきた桑名藩は、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争に際し、藩として旧幕府軍の立場をとり続けました。そのときの桑名藩主が、第18代の松平定敬(さだあき)です。定敬は京都所司代として、兄である会津藩主で京都守護職を務めた松平容保(かたもり)とともに、幕府の代表となり朝廷との交渉にあたりました。幕末の政治の中心であった京都において、定敬、容保と15代将軍の徳川(一橋)慶喜の三者による体制を一会桑政権といいます。しかしその後、慶喜による大政奉還、薩摩藩・長州藩による王政復古の大号令が起こり、その職を解かれることになります。続く鳥羽・伏見の戦いで三者は朝敵とみなされ、戦力的に優位だったにもかかわらず旧幕府軍は敗北しました。

東北を転戦する定敬

鳥羽・伏見の戦いの敗北により、慶喜が「敵前逃亡」したエピソードはつとに知られていますが、その際、定敬と容保も慶喜に同行し、江戸に向かっています。そこで慶喜は恭順(降伏)しますが、定敬は桑名藩の領地である柏崎を経て、容保のいる会津若松へ向かい、最後は箱館五稜郭での戦いに臨みます。会津での戦いは白虎隊の悲劇などで知られ、五稜郭の戦いは土方歳三をはじめとする新撰組の最期の地として有名です。幕末の歴史の真ん中で、桑名の殿様である定敬は最後まで戦い続けたのです。

鎮国守国神社で行われたおみくじ

一方、藩主や主力の藩士たちが不在の藩内では、藩主が京都警備の任務にとどまることで財政が悪化、残された藩士や商人たちの間で不戦論が起こり、抗戦派との内部分裂が起こっていました。そこで、藩の態度を決める話し合いが行われ、さらには、鎮国守国神社で先代藩主の真意を問うおみくじが行われました。

「藩内での話し合いで、いったんは藩主に従い戦うことになったのですが、形勢有利な新政府軍に従うべきとの声も根強く、意見はまとまりませんでした。そこで、藩祖神前でみくじがひかれたのです。結果は抗戦でした。しかし、先代藩主の妻である珠光院の後見により、最終的には定敬が戦い続ける中で第17代藩主定猷(さだみち)の子である定教を後継とし、桑名城を新政府軍に明け渡すことになりました。当時の桑名は、藩主は旧幕府軍として戦い続けているにも関わらず、国元は無血開城するという、どちらともつかないちぐはぐな状況に陥っていました」(嵯峨井さん)

桑名藩のその後

定敬はその後、箱館を訪れた桑名藩家老の酒井孫八郎の説得に応じ、降伏。新政府軍の桑名藩に対する処分は厳しいものでしたが、定教が藩主となり再興が認められました。

「幕末の桑名藩主や桑名藩の決断に正解はないと思います。過去の歴史であり、今桑名の人が幸せならそれでいいということ。桑名では、戊辰戦争で桑名藩抗戦派の「雷神隊」隊長として定敬とともに戦ったのち、明治維新後に陸軍大将に上り詰めた立見鑑三郎のような人物も輩出しました。定敬は、最後は徳川家康を祀る日光東照宮の宮司となり、明治41年に亡くなりました」(嵯峨井さん)

桑名藩の歴史とは、本多忠勝から松平定敬まで、忠義心に篤い藩主が藩を治め、徳川家と江戸幕府を支え続けた歴史です。鎮国守国神社の境内にある桑名城天守台跡地に建つ忠魂碑の碑文は、定敬が書いたものです。そこにはこう書かれています。「忠哉義哉 桑名士民 守節取義 各殉其難 郷党追慕 建碑招魂」(忠ナルカナ義ナルカナ。桑名の士民。節ヲ守リ義を取ル其ノ難ニ各ガ殉ズ。故郷ヲ忍ビ碑ヲ建テ魂ヲ招ク)。


桑名城天守台跡地に建つ忠魂碑

鎮国守国神社

住所

三重県桑名市吉之丸9

受付時間

9時00分~17時00分

その他

開館時間・休館日・料金等の最新情報については公式ウェブサイトでご確認ください。

施設紹介

鎮国守国神社

公式サイト

鎮国守国神社(外部サイトへリンク)(別ウィンドウで開きます)

桑名の歴史をより深く知る——桑名市博物館

桑名市博物館では、本多忠勝や桑名藩の歴史資料をはじめ、村正の刀剣コレクション、浮世絵や萬古焼、スポーツ関連の展示まで、個性的な企画展示が行われています。2021年は本多忠勝入封420年の節目の年で、本多忠勝と本多家に関わる資料を一堂に集めた企画展を開催。合わせて「刀剣乱舞-ONLINE-」とのコラボレーション企画を実施し、本多忠勝の息子の桑名藩2代藩主・本多忠政の所持した刀「桑名江」をモデルにした「刀剣男士 桑名江」の等身大パネル展示なども行われました。春日神社、多度大社、鎮国守国神社が所蔵する宝物の企画展も行っています。桑名の歴史めぐりの最後に、ぜひ足を運びたいスポットです。


建物2階には桑名城郭の全体模型や戊辰戦争時の桑名藩士の行動略図などを常設展示。桑名の連鶴も展示されています


桑名市博物館館長で学芸員の杉本竜さん

桑名市博物館

住所

三重県桑名市京町37-1

利用可能時間

9時30分~17時00分(入館は16時30分まで)

休館日

月曜(祝日の場合は開館)、祝日の翌日(日曜の場合は開館)、年末年始(12月29日~1月3日)、展示品入替機関

その他

開館時間・休館日・料金等の最新情報については公式ウェブサイトでご確認ください。

施設紹介

桑名市博物館

公式サイト

桑名市博物館

特集 くわなの過ごしかた。

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掲載日:2022年2月1日

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