更新日: 2022年2月1日

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伊勢湾台風

1959(昭和34)年9月26日夕刻に紀伊半島先端に上陸した台風15号(伊勢湾台風)によって、台風被害として明治以降最多の死者・行方不明者数5,098名に及ぶ被害が生じました。この台風による犠牲者(ぎせいしゃ)は全国32道府県に及び、その83%は高潮の発生によって愛知・三重の2県に集中しました。

紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮(たかしお)、強風、河川(かせん)の氾濫(はんらん)により甚大(じんだい)な被害が出ました。三重県では死者・行方不明者1,200名以上で、台風が通過した奈良県や岐阜県でも、それぞれ100名前後の死者・行方不明者が出ました。

桑名市周辺は同日午後7時過ぎから荒れはじめ、海上から揖斐川方面の沿岸部へかけて高潮襲来の兆候が濃くなり、8時半頃から10時前後にかけて台風が接近し、深夜に到達しました。暴風警報は早くに出されていましたが住民はそれを重大視せず、事前避難対応はほとんどありませんでした。6年前の台風13号の軽微な被害が危険意識を薄めていたことも考えられます。また、深夜であったためか、状況の把握、情報の伝達、避難の実行など避難行動を妨げる多数の要因が重なり、被害を拡大させたとも考えられます。

桑名市周辺地域で最初の堤防決壊(ていぼうけっかい)は、城南地区でした。ここは、明治期の分流工事によって干拓された地区であり、揖斐川の最下流にあたる地区でした。これは河川の流域面積と同時に河川の高さにも関連し、揖斐川が最も低い位置を流れることから、伊勢湾台風時にも揖斐川からの増水が高潮の影響を受けて破堤に結びついたものと考えられています。

長島地域で最初に決壊したのが揖斐川沿いの松蔭(まつかげ)地区の堤防で、その後、長島海岸の海岸堤防2箇所が決壊し、この3箇所から高潮が下流から上流に向かい一気に入り込んできました。9月30日には、名古屋市に三重県対象の中部日本災害対策本部が設置され、光風中学校は、派遣自衛隊の基地となり、明正中学校、桑名高校はヘリコプターの発着場に使用、成徳中学校、大成小学校なども部隊駐屯宿舎となりました。

【死者・行方不明者(1980年調査)】旧桑名市198人、旧長島町381人、木曽岬町328人を出しました。

この台風は、9月30日「伊勢湾台風」と命名され、1961(昭和36)年に定められた災害対策基本法は、伊勢湾台風を教訓としています。桑名市では多くの死者を火葬する場所もなく、稗田(ひえだ)の町屋川原で荼毘(だび)にふしました。この地には、1966(昭和41)年9月に「荼毘之跡」碑が立てられました。

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