更新日: 2022年2月1日

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桑名空襲と復興

桑名市は、1945(昭和20)年1月から7月にかけて、5回にわたって空襲(くうしゅう)を受けました。

空襲写真

国土地理院提供 空中写真 米軍航空写真爆弾

そのため、市街地は、ほとんど焼けてしまい、全焼家屋6,950戸、死者416人(『三重県警察史』では657人)に達しました。罹災地(りさいち)面積91%で、全市民の7割が罹災しました。

被害を受けた大きな建物は、東洋ベアリング、三菱重工業、山本重工業、市役所、桑名駅、桑名遊郭、宮通から吉津屋、鍛冶町に至る商店街、赤須賀も一面焦土化し、春日神社、薩摩義士の菩提所海蔵寺、本多忠勝の本廟浄土寺等、跡形(あとかた)も焼きつくされました。

他にも、桑名中学、第1、第2、第3、第4、大成、城南の各国民学校など、神社や寺も殆(ほとん)ど焼けましたが、第5国民学校(現在の益世小学校)だけが難を免(まぬが)れて市役所の仮庁舎に利用されました。なお、市内坂ノ下周辺は、2か月前の名古屋地方空襲の余波を受けて、13戸が焼失しています。

戦後、国の戦災地復興計画基本方針に従い、罹災地区190.7haを対象に、幹線道路や公園、上下水道などの面で、復興整備計画が練られ、1946(昭和21)年に事業が始まりました。その計画の中では防災や美観に配慮して国道1号線を30mに拡幅するとともに、幹線道路が配置されました。現在の中心市街地の都市計画は、ほぼこの時に決定されています。そして建物は焼失してしまいましたが、幹線道路を除くと堀や生活道路は、初代桑名藩主の本多忠勝が行った慶長の町割によってつくられた街路が大切にされ、それらを踏襲(とうしゅう)しています。

この復興事業は、1966(昭和41)年に20年の歳月をかけて完成しました。

お問い合わせ

市長公室 秘書広報課

電話番号:0594-24-1492

ファックス番号:0594-24-1119