更新日: 2022年2月1日

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桑名の夕市

桑名は、気候と良質の土壌(どじょう)に恵まれた上、木曽・長良・揖斐の三川が通じ、尾張・美濃・伊勢のお米の産地との交通がきわめて便利であり、中世より、伊勢神宮の献納米(けんのうまい)や京都への移送米を扱っていた関係上、米の取引が次第に増えていきました。

新築町

取引が盛んになると、米問屋(こめとんや)が米会所(こめかいしょ)として発展します。

江戸時代初期には、桑名会所が設立され、庄内米・出羽米・近江米なども桑名に移送されるようになりました。桑名産の米は品質優良で、酒造りに適した米としても選ばれる程で、他藩の米に比べて高い価格で取引されていました。

1784(天明4)年には、藩主の許可を得て、吉津屋(よつや)に米会所(米市場)が設立され営業を始めました。当時、開設に尽力したのは、今一色町の市岡家であったといわれています。

明治期になると米の取引は政府の許可制になり、桑名は、1877(明治10)年に許可を受け、殿町に「米商会所」を設立しました。

1893(明治26)年法律が改められ、株式組織の「桑名米穀取引所」が設立されました。その後、新築町に移り、40数軒の仲買店が軒を並べ大阪堂島に次ぐ米取引が行われました。

「桑名の夕市」は、午後に2度行われ、とくに2度目の夕市が翌日の相場予想の材料になると言われていました。ここでの相場はすぐに各地に伝えられ、東日本から大阪までの米価を決定するほどで、相場が決まると、すぐに屋上に登り、色鮮(あざ)やかな旗(はた)を振り、それを多度山(「旗振山(はたふりやま)」「旗振り通信」「相場山」という風に呼ばれていました)から中継地を経て名古屋・大阪堂島へ伝えられました。

天下一といわれた「桑名の夕市」でしたが、ラジオの普及や外国米の輸入、米穀統制令などによって、消滅(しょうめつ)していきました。

現在、桑名米穀取引所の跡地(あとち)は、新築児童公園になっています。

お問い合わせ

市長公室 秘書広報課

電話番号:0594-24-1492

ファックス番号:0594-24-1119