更新日: 2022年4月15日
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本丸跡等
本丸跡
東西約60間(約108m)、南北約32間(約58m)のほぼ長方形で、四方は堀で囲まれ、西北と西南とに入り口があった。東北角に天守閣、西北、東南(辰巳)に三重櫓があった。西南角には伊勢神戸城から移した三重櫓があったが、幕末には櫓台のみとなっていた。本丸には鎮国守国神社が祀られていたが、他には主な建物はなかった。明治維新以後は一時的荒廃していたが、現在は九華公園及び鎮国守国神社境内となっている。
天守閣跡
本丸の東北角にあり、本多忠勝時代に建設された。四重建(内部は六層)、一番下の重は8間(約14.4m)×6間(約10.8m)の広さであり、高さは9間5尺6寸(約17m)であった。元禄14年(1701年)の火災で町内・城内の大半が焼失し、天守閣も焼失して、以後再建されない。明治20年(1887年)天守閣跡に剱型青銅製の「戊辰殉難招魂碑」が建立され、現存している。
辰巳櫓跡
桑名城本丸の東南角にあり、三重櫓であった。天守閣が元禄大火で焼失して、再建されなかったので、以後は辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった。そのため、明治維新の時に、落城のしるしとして新政府軍により焼き払われた。跡地には現在も土盛りが残っており、大砲がおかれている。この大砲の由来については不祥。
三之丸御殿
新城は本丸と堀を隔て、北にあり、城主が居住する御殿が建てられた。明治維新以後は建物は取り壊されたが、一部は朝日町小向の浄泉坊に移築され、現存している。跡地は桑名紡績工場として使用されたが、平成元年(1989年)に吉之丸コミュニティパークとなった。また、跡地の一部に本多忠勝像が平成2年に建立された。
鎮国守国神社
天明4年(1784年)白河(現福島県白河市)城内に松平定綱(鎖国公)を祀ったのが始まり。文政6年(1823年)白河から桑名へ移封にともない、当社も桑名城本丸に移る。のち松平定信(守国公=楽翁)をも祀る。明治維新後はしばらく本丸の外に移っていたが、明治40年(1907年)本丸跡の現在地に移った。大正8年(1919年)に現拝殿が完成。昭和9年(1934年)に楽翁公百年祭記念宝物館が完成。戦災を免れたので、拝殿・社務所などの戦前の姿を残している。主な社宝に「集古十種版木」、「松平定信像」、「類聚名義抄」、「松平家具足」、「脇差 来国光」、「刀 銘鳴神」や舞楽面、楽器、定信考案模型類、各種の古地図・古文書など多数ある。また境内に楽翁歌碑がある。宝物館は5月2日から3日の大祭日(金魚まつり)に一般公開されるが、それ以外の日は、あらかじめ申請をし、許可がある場合に限られる。
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