更新日: 2022年2月1日

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宝暦治水

桑名市の地形

宝暦治水とは、江戸幕府の命令によって、1754(宝暦4)年から薩摩藩(さつまはん)が行った治水工事(ちすいこうじ)のことです。

水運を利用して発展した桑名は、一方では水害に悩まされる土地でもありました。

洪水になると木曽・長良両川の水が揖斐川に大量に流れ込み、常に美濃・伊勢側に水害が発生しました。

その理由の一つ目は、まずその地形にあり、木曽川の川底が揖斐川底より1mくらい高かったためです。

二つ目に「御囲堤(おかこいづつみ)」と「輪中」の問題がありました。犬山から弥富までの約50kmに及ぶ木曽川左岸に築かれた堤防は御囲堤と呼ばれ、尾張を洪水から守るために役立ちましたが、美濃・伊勢側にはこの御囲堤より常に1mも低い堤防を築くことしか許されなかったと言われています。また、堤防が切れると水は輪中の中に流れ込み長い間水が引かないので被害を大きくしました。

1753(宝暦3)年、幕府は薩摩藩に御手伝普請(おてつだいぶしん)を命じました。これは大名の財力を削いで幕府に反抗させないためで裕福な藩により多く命じられたともいわれていますが、石高と工事規模に応じて、20~30年に1度、各藩に回ってくるものであったともいわれています。ただ、この年に薩摩藩は、回ってくるとは思っていなかったようです。当時、裕福(ゆうふく)と思われていた薩摩藩ですが、実際は莫大(ばくだい)な累積赤字(るいせきあかじ)があったと言われています。しかし、幕府の命には逆らえず、工事に取り組みました。総奉行には、藩の財政を担当していた家老 平田靭負(ひらたゆきえ)がなりました。

1754(宝暦4)年、薩摩から武士500人余り、下働き300人余りその他医者などを含めて1,000人ほどの人々がやってきました。工事は、破損した堤防の復旧工事と木曽・長良・揖斐川の流れをそれぞれ独立して流す三川分流に目的が置かれました。

この工事によって、故郷(こきょう)に帰ることができずに、この地で亡くなった薩摩藩士がたくさんいました。多くは病死でしたが、幕府役人達との意思の相違から自害した人もいる節があります。市内の海蔵寺(かいぞうじ)・常音寺(じょうおんじ)などに墓所があります。

費用は当初の見積予算15万両をはるかに超えて40万両に達し、これによって薩摩藩の累積赤字は百万両余りと言われています。

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