更新日: 2022年2月1日
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本多忠勝
現在の愛知県岡崎市西蔵前町で生まれ、幼い頃から徳川家康に仕え、家康の天下統一を支えました。
数多くの戦場で手柄(てがら)を立て、徳川四天王の一人として活躍しました。
使用していた鎗(やり)「蜻蛉切(とんぼぎり)」、兜(かぶと)「鹿角脇立兜(かづのわきたてかぶと)」、鎧(よろい)「黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」は有名です。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの後、忠勝は上総国大多喜城主から初代桑名藩主となりました。交通の要衝(ようしょう)である桑名に配置されたのは、大坂でなおも影響力を持つ豊臣秀頼(とよとみひでより)に対抗するためだったと考えられています。
桑名での忠勝は「慶長の町割」「桑名城築城」「東海道の整備」など輝かしい功績(こうせき)を残しました。また、多度大社が織田信長の焼き打ちを受け、多大な被害を被ったため、多額の費用を提供し、多度大社の再興に寄与しました。
中断していた上げ馬神事は、2代藩主の本多忠政(ほんだただまさ)(忠勝(ただかつ)の息子)が再興(さいこう)しています。
63歳で生涯を終え、桑名市にある浄土寺に葬(ほうむ)られました。忠勝は終生、家康への忠誠を尽くしたと言われています。
大坂の陣では、忠政が本多家を率(ひき)いて奮戦(ふんせん)し、その功績により戦後、姫路に転封(てんぽう)となりました。
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