更新日: 2022年2月1日

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幕末の桑名藩

江戸末期の動乱期、桑名藩は藩主 松平定敬(さだあき)が京都所司代につき、兄の会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)とともに幕府を支えました。

松平定敬像

松平定敬(まつだいらさだあき)

一方、1866(慶応2)年、坂本龍馬(さかもとりょうま)を介して薩摩藩と長州藩は同盟を結成しました。これを機に一気に討幕運動の機運が高まり、討幕派と幕府派という対立の構図が日本列島を覆いました。

この頃、列強諸国とのつながりを強めていた討幕派は、1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに欧米の近代化した軍隊を江戸に向け進軍させました。その後の一連の戦いを総じて戊辰戦争(ぼしんせんそう)といいます。

討幕派は明治天皇を擁(よう)することで官軍となり、桑名藩や会津藩は朝敵(ちょうてき)とされてしまいます。

定敬と容保、そして徳川慶喜は江戸へと敗走することとなります。定敬は各地で転戦し、函館(はこだて)​​​​​(榎本武揚のいる五稜郭(ごりょうかく))に向かいました。その間、桑名では、抗戦か開城かで桑名藩内で激しく議論をしました。結果、開城を選択した桑名藩は、1868(慶応4)年1月28日に開城をし、尾張藩の管理下に置かれました。この時、降伏(こうふく)の証して桑名城の辰巳櫓が焼き払われました。

また、抗戦を続ける藩主定敬(さだあき)に対して、酒井孫八郎は粘り強い説得工作を行い、定敬も説得に応じました。二人はその後、東京に向かい桑名藩は正式に降伏しました。こうした背景のなかで、桑名藩が義を通しつつも、藩士・民衆の命を優先することで開城に踏み切った当時の様子がわかります。

1869(明治2)年8月15日、桑名藩に対する処分として、6万石に削減され、9月松平定教(さだのり)(定敬の養子)が藩知事に任じられます。一方、定敬は、東京での取り調べ後、謹慎(きんしん)の身となりましたが、1872(明治5)年に赦免(しゃめん)されました。

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