更新日: 2022年2月1日

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安永餅と旧東海道

安永餅

室町時代後期、桑名は連歌師宗長の紀行に「港の広さ5・6町、寺々家々数千軒立ちならび、数千艇の船が橋の下に広く停泊していた」と記され、海路の起点であったことがうかがえます。

京都への陸路は、尾張-美濃-近江から、再び、東海道(伊勢参宮街道を含む)が見直されるようになり旅人に利用されるようになりました。その背景には江戸幕府が積極的に東海道の整備を行ったことがあげられます。

江戸中期、これまで以上に旅人の往来が盛んになると、宮と四日市を海路で直行して、宿泊予約を入れていた桑名宿(くわなじゅく)を通過するものが現れました。それらを防ぐため、あらかじめ桑名宿に報告するよう課されました。また、陸路・海路の整備は、新しい事業の参画を促し、飛脚(ひきゃく)問屋や、廻船(かいせん)問屋ができました。

そうした中、東海道の四日市では日永立場(※1)の「永餅」が、桑名では安永立場の「安永餅」が、往来する旅人に振る舞われました。江戸時代前半頃から、親しまれるようになった「安永餅」の店跡としては、旧東海道の桑名側の町屋橋手前、安永常夜燈(やすながじょうやとう)(※2)の近くで営業していたとされる建物が現在も残っています。

(※1)立場とは、五街道や脇街道に設けられ、人夫(にんぷ)や駕籠(かご)をとめる休息の場所とし利用され、その地名にちなんだ名が付けられました。

こうした施設は、旧東海道に多くあり、安永立場以外にも福江町から三ツ矢橋までの通りにある矢田立場跡には、火の見櫓(ひのみやぐら)が再建されています。また、福江町周辺の両脇は、和菓子屋が現在も立ち並んでいる事から、江戸時代の人々の往来が想像できます。

(※2)常夜燈は、商人や、旅人らの寄進によって建てられ、夜になると火が灯されました。

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